憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士の人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

『ユリイカ』岡田監督インタビューから考えるレイリアとメドメル~「さよ朝」考察続編~

 さて、これまで「さよ朝」についての考察を様々行ってきた。今回の話も、一部それを踏まえたものとなるので過去記事も合わせて参照していただきたい。

 

konamijin.hatenablog.com

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  前回はスタッフ座談会本から、レイリアとメドメルの最後の場面について考察した。そして今回は、『ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集岡田麿里』における、岡田監督(脚本も担当)のロングインタビューから、あの場面についてもう一度考えていきたい。聞き手は上田麻由子さん。ロングインタビューというだけあってなかなかの文章量があり、「さよ朝」の制作に関する話や、岡田監督自身のことなどが語られている。

 岡田監督は、マキアに助けられ、レナトに乗るレイリアが「私のことは忘れて」と言う場面について、堀川さん(堀川憲司)から「意味がわからないと言われました」と語っている。確かに堀川さんは座談会にて、「なぜレイリアが娘を切り捨てて、自分は新たな道を行くという」感情になったかが、「分からない」と言っていた。

 それを聞いた上田さんは、「あそこって百合っぽさも感じました。女の子ふたりでこの世界から逃れていく(中略)せつなくも清々しさもあって。」と応じる。それに対し岡田監督は「そう、清々しくしたいと思っていて。」と答えている。なるほど、百合っぽいかどうかはなんとも言い難いが、少なくともこれまでの生活に別れを告げ、新しい一歩を踏み出すという清々しさは感じられるというものだ。問題は、堀川さんの言うようになぜそういう感情に至ったか、ということだ。

 更に、岡田監督は、あの辺りの場面は「全体的に好きなシーン」だと語り、こう言っている。

 

 「むしろそのあとのメドメルの「お母さまってお綺麗な方なのね」という台詞がすごく気に入っているんですよ。許したり許される物語が好き。あの台詞はレイリアには聞こえていないんだけど、あれでレイリアもメドメルも救われたなと私は思っていて。」

 

 メドメルのセリフは、レイリアがレナトに乗って飛び立ってしまった後のセリフなので、当然レイリアには聞こえていない。もしメドメルが「なぜ行ってしまうの」と言って泣いたりしていたならば、それはレイリアに対する許しにはならないだろう。むしろ観た人に「かわいそうだ」という感想を持たせてしまう。メドメルはレイリアを許したという解釈は成り立たず、メドメルは一人ぼっちになってしまったと思うだろう。

 しかし、前にも述べたように、メドメルの声からは怒りや悲しみの感情はうかがえない。あるがままを受け入れ、達観しているかのようですらある。「あれでレイリアもメドメルも救われた」ということは、メドメル自身も「救われた」ということだ。レイリアも、「自分は母親らしいことは何もしてあげられなかった」という思いが、どこかにあるに違いない。一方でメドメルには、「今更何しに来たの」といった感情ではなく、「ああ、これが私のお母様なのか」という思いが残った。レイリアが荒れていた頃、メドメルも母の話をしようとして口をつぐんだ場面があった。以前書いたが、メドメルは「母親というものはよく分からない(愛情を受けたことがない)けれど、レイリアが自分を生んでくれて、大切に思っていてくれた人」ということは伝わった。だから最後に顔を見れてよかった、と思った。それが二人が「救われた」ということの意味ではないだろうか。

 話は前後するが、聞き手の上田さんは、アニメ評論家の藤津亮太さんが「あれ(※レイリアの私のことは忘れてというセリフ)は娘のことを思って心にもないことを投げたんだよ」と言っていたというエピソードを紹介し、一方で自分(上田)は「(レイリアが)自分のために言っているように聞こえたんですよね。執着からの解放というか。」と述べている。それに対し岡田監督は「うん、どちらもあると思います」と答えている。

 藤津説を取るのであれば、レイリアは本当は自分のことを忘れて欲しいとは思っておらず、心のどこかで覚えていて欲しいと思っている。しかし、逆に「私のことを忘れないで!」と言ってしまえば、幼いメドメルは生涯に渡って、どこかで母親のことを思い出したりするだろう。「忘れて」と言うことで、自分(レイリア)のことなんか気にしないで、自分の人生を歩みなさいと伝えたということか。

 そして上田説。「私のことは忘れて」はメドメルに対して言ったものでもあるだろう。そして、レイリアが自分自身に言い聞かせたもの、すなわち自分の娘への最後の執着(迷い)を振り払うためのもの、であるという説だ。

 確かにどちらの説も頷けるものがあるが、個人的には藤津説を推したい。自分のことを忘れなさい、と言うことは、確かに別れを意味するかもしれない。しかし、その言葉の中にあるのは、娘を思う母親として示した最後の優しさではないだろうか。

 

 岡田監督は、以下のようにも述べている。少し長くなるが、重要な指摘であるため引用したい。

 

 「自分の孤独を埋めるために執着したものの結果、多くの大切なものを失ってしまった。その執着したメドメルに「あなたは誰?」って言われた瞬間、レイリアは自分自身の思い込みの間違いをつきつけられたんですよね。だからこそ執着から解放されたし、同時にメドメルに対しても、これから先の人生で自分に縛られて欲しくないと願っている。」

 

 岡田監督の言う「自分自身の思い込みの間違い」とはどういう意味だろう。物語の中盤。レイリアは会えないメドメルに執着し、荒れる。そして国の滅亡の間際になっても、自分は娘のメドメルに執着していた。元恋人のクリムの誘いすらも断った。そしてクリムは撃たれ、死んだ。それ以前には、助けに来てくれた仲間たちも死んでいる。それだけ執着していた娘だったが、逆にメドメルは母親である自分を必要としていなかった。顔すらも知られていなかった。それによって、「この子と私の間には、全然違う時間が流れていたんだ」と悟ったこと=「執着から解放」される、「間違い」を悟ったということなのか。

 そして、「メドメルに対しても、これから先の人生で自分に縛られて欲しくない」と願う。その思いが、レイリアを「飛ぶ」という行為に走らせたのだろう。ならば、やはり自分(レイリア)がいなくなった方がメドメルにとっていいことだ=「自殺」しようとしていた、と解釈することも可能であるという話になってくる。

 座談会本にて、堀川さんは「レイリアが自殺しようとしていた」という考えを述べていた。それについても、岡田さんはこのインタビューにてこう答えている。

 

 「その意見には驚きました。でも、たしかになと。自殺って、ある意味で究極の解放なのかなっていう気がしないでもない。」

 

 この物語の脚本を書いたのは岡田監督である。ゆえに、「その意見には驚きました」ということは、岡田監督の頭にレイリアは自殺しに来た、という解釈は存在していなかったということになる。後で作品を観た堀川さんの意見を聞いて「なるほど、そういう解釈もできるんですね」と思ったのだろう。確かに、現世において、自分に関係する全てのものから逃れるには、自殺という選択は「究極の解放」となりえる。こう書くと私が自殺願望を持っているかのように受け取られる方もおられるかもしれないが、そういうことではない。

 自殺説を採用しないのであれば、これまで過去記事で考察してきた通り、レイリアは娘のいる場所を知っており、会いたいと思ってあそこにたどり着いたのか。彷徨い歩いた末の偶然なのかのどちらかになるだろうか。そもそも、レイリアの「飛ぶ」という行為の真意は何なのか。

 岡田監督は、あのシーンに関して次のように述べている。

 

 「(レイリアが)「飛んでおいで」って(マキアの)声を空耳するところも、危うさの方向にも振れますよね。あれも、スタッフのあいだでは「マキアは実際に言った」「言ってない」って論争があるんですが、私が答えを言おうとすると止められるんです(笑)。」

 

 この点に関しては、座談会本で堀川さんが、マキアに助けられたレイリアの表情が「キョトンとしてる」という点や、レイリアの声が「マキア?」と疑問形になっているという点から、レイリアはマキアがレナトに乗って来ることを知らなかったのでは、という説を述べていた。私もこれに同意した。

 このインタビュー記事を読む限りでは、岡田監督は「声を空耳する」という表現を用いている。岡田監督が「私が答えを言おうとすると止められる」と言っているので、やはり「答え」=正解はあると考えてよい。「空耳」であるならば、やはりマキアは「飛んで」という声を発しておらず、あれはレイリアの幻聴。飛んだところを偶然救われたと解釈できるだろう。

 レイリアは自殺する気はなかったが、かつての恋人であったクリムとも決別することとなり、国も滅亡寸前。マキアも生きているのかわからない。そんな状況下で、自分を死へと導くことになる「飛んで」という幻聴が聞こえたとしたら。それが「(精神状態の)危うさの方向」ということになるのか。ここは私の推測でしかない。

 ここからは自分の仮説である。以前の記事で、レイリアにとって「飛ぶ」という行為は、「自由」の象徴だと言うことができるのではないか。と書いた。岡田監督の言うように、レイリアはメドメルに対する執着から解放された。つまり、自由になったということだ。娘と自分は交わることがない。彼女は、自分のかつての生活のことを思い出した。それが、自分はイオルフの民で云々、という語りにつながる。昔の様々な思い出が胸に去来する中、かつて自分はマキアに対して「飛んで」と言い、怖がって飛べない彼女に「弱虫」と言った。今度は、マキアから「飛んで」と言われているような気がした(空耳)。そこで「私は飛べる(=また自由になれる)」と思い、何かに導かれるようにして飛んだのではないか。自由への飛翔だ。その行為が、結果的に死につながるとしても(マキアが助けに来ていなければそうだろう)、彼女自身は死のうと考えて飛んだのではない。自由を求めて(手に入れようとして)飛んだのだ。

 この点、やはり解釈が非常に難しい。前にも言ったが、「あなたの意見は違う」と思ってもらって構わない。ぜひ貴方の解釈を教えてほしい。岡田監督、もし答えがあるのなら、いつか聞かせてください。

 

 おまけ

 出演声優陣は、岡田監督がこれまでに関わった作品にも出演していた人たちが多いが、オーディションがあったという。それについて、岡田監督はこう答えている。

 「茅野さんはオーディションでやった、レイリアがイゾルに詰め寄るシーンがすごかったんですよ。業というか、この人どんな人生送ってきたんだろうって思うくらいに。わりと親しいはずなのに、「この人はまだ隠してることがいっぱいあるのかも」と底知れなさを感じて。」

 以前に触れたが、実際に放映されている映画の方でも、茅野さんのあのシーンの演技は鬼気迫るものがあった。レイリアの心情が色濃く出たシーンであるといえる。茅野さんがあそこまでやるというのもそうそうないのではあるまいか。あのシーンは何度でも見返してみたいと思わせるシーンである。