憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士の人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

擬人化と昔の猿蟹合戦は面白いという話―蟹味噌を取られる蟹

 久しぶりにまじめな、文学的な話である。昨日、こんな記事が話題になっていた。

mag.japaaan.com

 動物の擬人化、いわゆる異類合戦物と呼ばれるものである。彩色もしっかりとなされている絵だ。こうした異類合戦物については、面白い研究があるので紹介しておきたい。なお、参考文献は一番最後に載せておく。正規の示し方ではないが、これは論文ではないのであしからず。今どきは某偽史倭人伝と同じような批判を受けないためにも、しっかり載せておくべきであろう。

 

「異類合戦物は中世後期に軍記物語のパロディとして生まれた。もちろん、その前提として、現実世界において異類同士の戦いを珍事として見聞することがあった。たとえば蛙の群婚を蛙の社会での合戦と認識し、見物する人々は古代から存在した。これら現実世界の生き物たちの行動に対する関心が軍記の叙述と結びつくことで、異類合戦物が成立したと考えたい。」

 

 さて、わが国では昔から現代に至るまで、擬人化という手法が盛んである。近世、江戸時代には「辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)」という本が、当時の洒落言葉を擬人化するという新しい試みを行った。洒落言葉とは、例えば「大木の切口ふといの根」(ふとい、とんでもない、ふてえ野郎だ)「とんだ茶釜」(驚いた)などの変わった言い回しである。そんな言葉たちが擬人化され、こう言う。「我々は草双紙に出て多くの人に名を知られるようになった。我々は草双紙の氏神のような存在であるので、画工や草紙屋、板木屋などは自分たちを崇めるべきである。それなのに彼らは茶の一杯も飲ませることはない。この春は珍しい化け方をして、職人共に思い知らせてやる」と怒った彼らは、本当に実行をするという筋書きである。動物でも物体でもないものを擬人化する発想は面白い。

 そして現代では、艦隊これくしょん刀剣乱舞など、元々は生物ではないものの美少女化・イケメン化がなされ、大人気となっている。特に刀剣乱舞は元になった実際の刀剣を展覧会などに見に行くという人も多く、私の知る某先生が、今どきは刀を見て悲鳴を上げる女性がいると話題にしていたことを覚えている。地域振興に大活躍のゆるキャラも、擬人化の一つだ。

 そんな擬人化だが、いざ絵にしてみると、いくつかの表現方法があることが分かる。田口文哉氏が「動物、変装、変身」の三つに分け、そこから更に水谷亜希氏が「本来の姿、合成的姿、人間の姿」という呼称を使用した。簡単に言うと、以下の通りである。これ以降の考察でも、この数字で説明する。合わせて、「お面型」と呼ばれる擬人化については後述する。実物を見てもらってからの方が説明しやすいからである。

 

1、動物・物体そのままの姿でしゃべったりする

2、本来は二足歩行をしない動物なども服を着てしゃべったりする、頭部などが元の動物そのままの姿である

3、動物的要素がなく、美少女・イケメンなど完全に人間の姿として擬人化されている

 

 1はよくある桃太郎の絵本を思い浮かべてみればよい。犬や猿、雉は動物そのままの姿で描かれている場合が多いだろう。それなのに、桃太郎ときび団子のやり取りをしたり、人間と意思疎通が可能である。そして、鬼との戦いでは雉がくちばしで目を突いたり、それぞれの動物的特徴を生かして戦う。そのままの姿であっても、これも「擬人化」と呼べるのだ。

 2は最初に紹介した記事の絵があてはまる。いずれも動物が擬人化されており、着物を着て人間風には描かれているが、頭部が元の動物そのままである。

 3は艦これや刀剣乱舞など、現在でも人気の擬人化コンテンツの多くが当てはまる。美少女化・イケメン化をすると、元になった事物の原型はなくなるが、体に軍艦的パーツを装備させたりといった要素を残そうとする場合もある。

 

 さて、今回は擬人化の面白さについて、誰もがよく知る『猿蟹合戦』を例に挙げて紹介してみよう。同じ題材であっても、擬人化の方法が異なっているという場合があるのである。近世の子供向けの絵本の中の、蟹が猿を懲らしめる場面を取り上げていきたい。

 

①『猿蟹合戦』

 最初に取り上げるのは赤本(受験のアレではなく、表紙が赤かったのでそう呼ばれる)の『猿蟹合戦』である。最初にこの絵を見ていただきたい。

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 順番に説明しよう。猿は動物そのままの姿(1)で描かれているが、これ以前の描写では着物を着て人間のようにふるまっていた。ここだけ、裸で元々の猿の姿での描写である。猿を懲らしめるべく、まず、卵がはねる。右上の丸から線が放出されているのがそれだ。昔の『猿蟹合戦』には、卵が登場することがある。こちらも1であろうか。我々がよく知る猿蟹合戦では、この役目は囲炉裏で熱された栗であろう。しかし、当時は卵なのである。意思を持って猿を攻撃している。そして糠味噌桶(右下)の方へ逃げた猿に対して、包丁が襲いかかりまな箸が突く。包丁は頭そのものが包丁の形をしており、顔がそこに描かれた2の形態である。まな箸は猿の足に突き刺さっており、これは1であろうか。続いて熊ん蜂(左下)と蛇(猿の足にいる)が襲い掛かる。蛇は巻き付く、蜂は刺すというその生き物ならではの攻撃をしている。どちらも1の形態である。続けて、手杵(臼の上)が猿の頭を打つ。次に猿は荒布(樽の隣の黒い線)で滑って転ぶ。これも1の形態だ。水瀬いのりさんが、町民集会夜の部でスタッフが描いた猿蟹合戦の絵の臼を「餅巾着?昆布?」と言っていたが、このように昆布が登場する猿蟹合戦は存在するのである(※町民集会でそう呼ばれていた絵は、どう見ても臼であった)。最後に、立臼が猿をとり押さえる。これは顔が臼だが体は人間という2の形態だ。左上では、蟹が少し離れた場所からその様子を見ている。ここでは人間の頭の上に蟹が乗っているという擬人化がなされている。これはお面型と呼ぶのが適しているが、1と3の折衷のような形であると言えようか。

 そこに、これまで猿に眷属を干し蛸にされていたことを恨んでいたタコが現れ、焼いたごぼうを猿の尻に押し付けた。タコは、頭そのものがタコだが体は人間の2の形態で描かれている。ちなみにこのタコ、「蛸の芋掘」という名前である。昔からタコが陸に上がって芋を掘るという話は存在しており、何より鴨葱と同様、タコと芋は料理としての相性もいいようである。

 この『猿蟹合戦』はストーリーも特殊である。ざっと説明しよう。まず竜宮より帰った猿(猿蔵という名前)が、水中で漆にかぶれたため医者に診てもらっているという語りから始まる。医者はこの痛みには膏薬もいいが蟹の味噌が最も良いと話し、他の薬なども出す。当時は蟹の味噌は薬効があると考えられていたようである。ただのおいしいものという扱いではなかった。その猿蔵の息子の猿平は、親のために蟹の味噌を探し求める。すると、蟹蔵が柿を取れずに困っていた。猿平は代わりに木に登って取ってやるふりをし、柿の実を食べ、渋柿を蟹蔵に投げつけた後、その頭の味噌を取って帰った。甲羅が割れたのだろう。えげつない話である。これは今どきの子供がショックを受ける。これ、当時の子供向けの絵本である。味噌を取られた蟹蔵は、病床に自分のなじみの立臼、包丁、クラゲたちを呼び、倅(蟹八という名前)と共に私の仇を討ってくれと重ね重ね頼み、息絶える。そこから復讐のため、蟹八は父の仇を狙うようになった。

 一方の猿蔵は快癒し、馬に乗り道をゆく。蟹八は葦の若芽の中から現れ、襲い掛かるも失敗。蟹八は猿にかなわないと思い、西国の秦(はた)の武文を頼る。蟹八は武文の元に逗留し、娘のお文と結ばれる。武文もそれを喜ぶ。注ではこの武文を「『太平記』巻十八に登場する後醍醐天皇一の宮尊良親王随身」であり、「武文の霊が甲蟹に化したとして土地の人がこれをとらない俗伝を批判している」とする話を載せる。ゆえに武文もやはり擬人化された蟹として登場する。この辺り、『太平記』が分かれば面白い発想である。

 一方の猿方は、山門の見猿、聞か猿、言わ猿に加勢を頼む。山門は比叡山延暦寺日吉神社(猿神信仰)もあるため、そこからの発想であるとされる。そしてついに猿方と蟹方が大合戦となる。結果的に蟹方は敗退。何で負けたとかといった記述はなく、「うち負けて敗軍する」とだけ。蟹はここは退き、改めて策謀を巡らそうとする。退却ではない、明日への進軍だ。

 蟹八は偽りの降伏をし(おいおい三国志なんかでよくあるヤツか)、猿蔵を先生と仰ごうとする。猿蔵は喜ぶ。蟹八は、猿蔵を自分の家に招いてもてなす。そこで一斉に襲い掛かる者ども。捕えられた猿蔵は降参し、謝罪する。そして猿蔵の息子の猿平は、今度は恥をかかされた俺たちが復讐する番だと蟹を討とうとしたが、武文の軍法によって和睦する。語り手は、武文の軍法の特に優れているのををたたえて終わる。復讐の連鎖にはならず、めでたしめでたし。蟹は二度も猿に敗れるが、最後は仇討ちに成功するなどより物語として面白みのある展開となっている。

 

②『さるかに合戦』

 今度は別の本を見てみよう。

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 こちらのストーリーは我々がよく知る一般的な猿蟹合戦と同じである。何も知らず猿が蟹の家にやってくる。囲炉裏からは卵(上の絵の囲炉裏から線を出してるもの)が、それから蜂(1の形態)が襲い掛かり、蟹(お面型)も姿を現す。猿は火傷をしたが、そこに蛇や包丁も加勢する。上の絵では、蟹がお面型で描かれている以外はすべて1の形態である。一方下の絵では、お面型が多くなっている。特に卵(左端)は人間の頭の上に丸い卵を載せており、着物にも「玉」と「子」が描かれている。猿は変わらず着物を着ておらず、1の形態である。包丁は①の猿蟹合戦とはうって変わって、人間の頭の上に包丁が乗っているというお面型である。玉子がはねつける、蜂が「刺すぞ」、包丁が「裂いてくれよう」と言っており、個々の本来の特徴を活かした攻撃をするには、1の形態で描いた方が都合がいいためこうした書き分けをしたのだろう。しかし、そう考えるなら、下の絵で猿の下に入り滑らせている荒布は謎である。変な髪型のおじさんではなく、昆布なのだ。先ほどは昆布そのままの姿で描かれているが、こちらもお面型となっている。そして杵にも注目してほしい。①の猿蟹合戦では、杵そのものに顔が描かれていたのに対して、こちらではお面型である。

 これ以前の会話の描写では、荒布の「あらめんどうな猿めだ」というセリフが荒布とあらめをかけていたり、「杵とかちんはめいしょを知る」が「杵とかちん(餅の女房詞)に諺『歌人は居ながらに名所を知る』を掛けたもの」であるなど、会話が個々の特性を活かして洒落を混ぜ込んだようなものになっている。

 

おわりに

 これ以上話すとかなり長くなるので、今回はこのくらいにしておこう。他にも変わった猿蟹合戦は存在するが、気が向いたら紹介する機会もあるだろうか。猿蟹合戦以外にも、擬人化ネタはいくつか用意している。最初にも述べた通り、同じ題材であっても、擬人化の方法が異なっているという場合があるのである。特に卵のような、顔のないものをどう表現するかという問題がある。これは生物であっても顔がないクラゲでも同様の問題が発生していた。そこでお面型である。普通の顔もある人間の頭の上にそのまま乗せ、着物に文字を書くなどしてこれは○○だと説明する方式。これがとても便利。昔の日本人も、現代と同様、様々な擬人化の表現方法を考えたのだ。もはや擬人化できないものは存在しないのではないかと思えてくる。

 余談であるが、最初に紹介した「辞闘戦新根」には、茶屋にいる擬人化された茶釜の姿を見た客が驚いて逃げるという場面もある。3の形式、すなわちイケメン・美少女であれば、かわいい、かっこいいで済む。しかし、頭は何か別の生物・物体で、胴体が人間という奇妙な姿を普通の人間が目にしたとき、それは化け物にしか映らないのである。当然だろう。逆に、擬人化された生物しか登場しない物語であれば、こうした「相手の姿かたちへの恐れ」というものは存在しない。自分もまた同じような姿をしているからだ。

 

〇参考文献

小池正胤、宇田敏彦、中山右尚、棚橋正博『江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集』社会思想社 1980年

鈴木重三、木村八重子編『近世子どもの絵本集 江戸篇』岩波書店 1985年

中野三敏、肥田皓三編『近世子どもの絵本集 上方篇』岩波書店 1985年

田口文哉「「擬人化」の図像学、その物語表現の可能性について―御伽草子『弥兵衛鼠』を主たる対象として」『美術史』 2006年3月

石川透編『中世の物語と絵画』竹林舎 2013年

伊藤慎吾『擬人化と異類合戦の文芸史』三弥井書店 2017年