憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士だった人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

年を越しても世界は変わらない

 年末である。皆様いかがお過ごしだろうか。大掃除や年賀状書き、コミケ、帰省などで忙しいという人も多いことだろう。今期視聴していたアニメ群も軒並み最終回ラッシュとなり、寂しい限りである。毎期非常に多くのアニメ作品が放送されるが、全て見るというのはよっぽどの好事家でもない限り難しい。ゆえに、今回リアルタイムでは触れることができなかった作品というのも当然ある。こうした作品は一生見ることがないかもしれないし、何かの機会に他の人から薦められたりするなどして見る機会があるかもしれない。放送が終わった作品も、何年かしたら2期やOVAが作られたりするかもしれない。

 さて、私がこのブログを前回更新したのは8/30、もう4か月も前のことである。テコンダー朴の件でアカウントロックを喰らったわけであるが、あれ以降、引っ掛かりそうなツイートの削除のかいあってか、同じ憂き目に遭うことはなかった。

 そもそもこのブログの存在を忘れていた、というわけではなく、わざわざブログでまとめるほどのものではない、Twitterに書けばそれで済んでしまうような話ばかりだったからである。しかし、今年はこれでこのまま放置するのもなんだか嫌だな、ということで書いている。次回の更新はまた来年(2019年)の年末になっているかもしれないし、それは私にもわからない。

 大晦日といえば、子供の頃、特に小学生の頃は高揚感のようなものがあった。年をまたぐと、何か世界が変わるのではないか、というような思いにも似た感情があった。街を歩いても普段とは違う空気感が漂っているし、テレビも盛んに新しい年を迎える準備はできているか?などと煽り立て、カウントダウン特番などが組まれる。子供としてはお年玉がもらえたりして嬉しい、というのもあるだろう。そんな私は当時ドラえもんの長時間スペシャルをよく視聴したもので、両親が紅白を見る時間を奪ってしまうためきっと渋い顔をされていたに違いない。そんな私が今年は茅野さんが出るという理由だけでドラえもんスペシャルを視聴したりしたのだから、人は変わるものである。

 そして年が明ける。我が家は親戚が非常に多いため、家を訪ねてくる彼らに対し、私は子供のころから頻繁に挨拶と雑談に連れていかれる。彼らによる私に関わる事象以外の話題は実に退屈なものであり、座敷は冬は寒い。しかし、私はお年玉を手に入れるために適当に時間を潰しつつ過ごすのであった。そんな話も今は昔。私の親戚も年を取った人が増え、昔ほど年始にやってくる人もそう多くはいない。みんな大変だから、ということで取り決めをして止めてしまったのだという。私の祖父も高齢で、年始の挨拶に出向くのをやめた。近年は私が帰省するたびに、親戚の○○、近所の××が亡くなった、と祖母が話している。私が子供だった頃と比べて、みんな年を取ったのだ。無常である。私の家系の男性は80歳まで生きた人はいないんだ、という話を昔聞いたことがある。まったく嫌な話だと思ったものだが、祖父は80歳を越えても生きている。このまま長生きして我が家の長寿記録を更新していって欲しいものだ。

 懐古はこのくらいにしよう。さて、いつからだろう。大晦日というものに対して、昔ほど特別な感情を持たなくなった。確かに、2018年が2019年にかわり、再び1月からスタートする、というのはあるだろう。しかし、明確な「断絶」ないし「進化」ではないのである。年を越しても我々が生きるこの世界は変わらずに続いていく。仕事だって年をまたいでやらねばならない案件もあるだろうし、「平成30年度」というものはまだ続く。きっと小学生の頃は、まだ幼い=こういうイベントを経験したこともあまりない、だから何もかもが新鮮に映った、ということなのだろう。それから毎年同じことを繰り返すと、だんだんと年を越しても世界は変わらない、ということが分かってくるというわけだ。果たしてこれは残念なことなのか、そもそもそういうものなのか。

 なにはともあれ、私と同じように大人になってしまった諸氏も、ゆっくりと年末年始を過ごしていただきたい。本年中の謝辞については、日を改めてTwitterの方に記したい。