憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士の人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

『英雄たちの選択』崇徳院回の内容まとめと補足史料と感想と―前編

 暫く更新はないと言ったな、あれは嘘だ(n回目)。3/29にNHKBSプレミアムで放送された、『英雄たちの選択』という番組。これが崇徳院回。これは私が記事を書かずしてどうする、というわけだ。今回はその番組内容をまとめつつ、補足を加えていったり自分の意見を述べたりするものである。そして、改めて崇徳院という人物について考えていきたい。崇徳院に関しては、先日記事を上げているので、そちらも合わせてご参照いただきたい。

 

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  さて、番組導入はこうだ。「かつて、日本を恐怖のどん底に陥れた、怨霊がいた…」とてもおどろおどろしい。まず見る人に興味を持ってもらうということか。そして紹介されるのが、江戸時代の歌川国芳による浮世絵。『百人一首之内』より崇徳院。これはよく知られた絵である。

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 左下の「七十七」という数字は、『百人一首』の崇徳院歌「瀬をはやみ」が77番歌だからである。ナレーションでは、そこから今回の内容をざっと説明し、鎌倉時代の軍記物語『保元物語』(フィクション)において崇徳が舌を噛み切り怨霊になる場面があると語る。私の手元の資料から、引用しておこう。

 

 「御舌ノ崎ヲ食切セ座テ、其血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状ヲゾアソバシタル」(『新日本古典文学大系 43 保元物語 平治物語 承久記』)―「舌先を食い切り、その血でお経の最後に誓いの言葉をお書きになった」

 

 何を誓ったのかと言えば、「日本国ノ大悪魔ト成ラム」ということである。『保元物語』には、多くの「諸本」がある。それぞれ大筋は同じでも、やや展開や描写が異なっていたりするのである。ここに引用したのは、最も古い状態をとどめているとされる「半井本(なからいぼん)」と呼ばれるものである。もう一つ多く利用されているのが、これより後の時代の『平家物語』などの影響がみられる「金刀比羅本(ことひらぼん)」である。

 本題に戻ろう。ナレーションは、これ以降、都では天変地異、政情不安が続き、誰もが崇徳の祟りを疑ったと語る。この辺はのちほど。

 更に、その祟りは天皇家にも降りかかると語る。ここで引用されているのが、金刀比羅本の一節だ。

 

 「皇を取て民となし、民を皇となさん」―「天皇を民にし、民を天皇にしてやる」(永積安明 島田勇雄校注『日本古典文学大系 31 保元物語 平治物語』)

 

 元は天皇であった人物が、天皇家を打倒すると言っている。この記述は、半井本には存在しない。

 ここから番組本編。スタジオには磯田道史さん、夢枕獏さん、山田雄司さん、萱野稔人さんという面々。山田氏は、最近は伊賀の地・三重にて忍者の研究に熱心に取り組んでおられる。三重大学大学院にて「忍者・忍術学」が専門科目になった、というニュースを見た方もおられるだろう。まさに、それに関わっていらっしゃる方だ。この方の崇徳院怨霊関係の著書は、私も論文を書く際に非常に参考になった。

 先に、山田氏の著書から、「怨霊」とは何かという定義について、示しておこう。

 

 「相手側から弾圧されたりしたことにより、追い込まれて非業の死を遂げ、その後十分な供養がなされなかった霊魂は、死後に自分の宿願を叶えるために、自分を追い落とした人物に祟って出たり、さらには社会全体にも災害を発生させると考えられてきた。それが「怨霊」と呼ばれる存在である。」

 「現代においては、怨霊の存在を真剣に信じる人はそれほど多くはないかもしれないが、古代・中世においては、天皇から庶民に至るまで、怨霊は実在するものとして恐れられた。」(山田雄司『怨霊とは何か』)

 

 磯田氏「日本史には数々の怨霊がいますよね。三大怨霊として平将門菅原道真、そして今回の崇徳上皇ですよね。この崇徳上皇の怨霊は実は最大最強です。何せ天皇をなさった方が怨霊になって天皇家を襲うからです。明治まで続くんですよね。」

 

 将門と道真については、歴史に詳しくない人でも、知っているという人は多いだろう。将門の首塚、そして清涼殿に雷を落としたと言われる学問の神様・道真。崇徳院怨霊が「明治まで続く」というくだりについては後ほど。他にも日本史では、後鳥羽上皇早良親王といった人物が、怨霊として有名だ。いずれも、山田氏の指摘するように、弾圧され、非業の死を遂げた者ばかりである。

 磯田氏は、先ほどの浮世絵について、「崇徳院は怒りのあまり天狗になったと言われてますよね。髪も爪も伸び放題にして、もう凄まじい形相になって、惨たらしく死んで、その恨みの力でもって皇室を呪い続けたと。」と述べている。

 再び、『保元物語』半井本より、引用しよう。

 

「御髪モ剃ラズ、御爪モ切ラセ給ハデ、生キナガラ天狗ノ御姿ニ成セ給テ」

 

 一方の金刀比羅本では、「御ぐし御爪長長として、すゝけかへりたる柿の御衣に、御色黄に、御目のくぼませ給ひ、痩衰させ給て」と記されている。これは都から康頼という人物が、崇徳の様子を見に行かされた際の話である。この恐ろしい姿を見た康頼は、何も言わずに帰っていく。また、同じく軍記物語である『太平記』には、非業の死を遂げた後鳥羽上皇等と共に、「大なる金の鵄翼をつくろいて著座」する崇徳院が、天下に禍をもたらすべく相談をしている描写がある。

 番組では、崇徳が怨霊となった原因として、1156年の保元の乱に触れる。

 

 磯田「一言で言うと、武士の世への転換点ですよね。それまでは天皇とか公家とかが普通に政権を担ってたわけですが、武士の力が政治に影響力を及ぼすようになったきっかけの戦いですよね。この保元の乱の中心にいたのが崇徳上皇だったわけですよね。」

 

 番組の後半でも触れられるが、磯田氏の言う「武士の世への転換点」とは、慈円が『愚管抄』において、「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本國ノ亂逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ。」(岡見正雄 赤松俊秀校注『愚管抄』)と書いていることによるものだ。実際、保元の乱の後も、平治の乱や壇ノ浦に終わる源平の争乱など、戦が続き、最後は武家政権である鎌倉幕府が誕生する。

 番組では、続いて白峯神宮を訪問。祭神が崇徳院だからである。明治天皇の即位と共に建てられた(1868年)ことに触れ、維新の時代に崇徳をまつり、その怨念を鎮めたということを語る。禰宜の話を聞き、御霊は崇徳が流罪となった讃岐国香川県)にあったが、そこから十日かけて京都に運ばれたと語る。この点についても後ほど(後で語ると断る話が多いのは、私が番組の編成の方に合わせているからである)。

 そこから、番組では神社の創建以来守られてきた崇徳の肖像画を紹介。ナレーションの言う通り、「怨霊のイメージとはかけ離れた、もう一つの顔」である。こちらこそが本当の顔なのだと。先ほどの浮世絵のような、髪を振り乱した青いような顔とはうって変わり、精悍な顔立ちである。

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 続いて、番組では同じく京都にある安楽寿院を訪問。崇徳の父・鳥羽院が建てた寺である。安楽寿院に関しては、以前の記事で崇徳が「父の墓参りをしたい」と願うも許されなかった、という話で名前が出てきたことを記憶しておられる方もいるかもしれない。そして不穏なナレーション。

 

 「平安時代後期、絶大な権力を誇った鳥羽上皇。この父との関係に、崇徳上皇は生涯悩まされることになります。」

 

 鳥羽院がここで政治をつかさどっていた、力を持っていたという話。そして院政の説明。

 

 「天皇を引退した上皇、院が中心となり行った政治のこと。天皇の後見人として権力の座についた上皇は、それまで摂関家によって守られてきた宮廷の慣例をことごとく無視。かつてない一強独裁体制を作り上げていた。」

 

 この院政をスタートさせたのが、例の叔父子説の白河法皇鳥羽院の祖父である。そこから、下級貴族の側近・「院近臣」と直属の親衛隊・「北面の武士」に触れる。院近臣としては、保元の乱の三年後の平治の乱で中心的な人物となる藤原信西藤原信頼が有名だろうか。北面の武士に関しては、西行法師がかつて鳥羽院の下でその役にあったことがよく知られている。

 ここで京大の元木泰雄氏が登場。以前の記事では著書から引用させていただいた。

 

 「(これ以前の)摂関時代は天皇外戚(母方の親族)が大きな力を持つが、院政期に入ると重大問題などは院が独裁的に決めることになった。もし院が判断を誤れば、大変なことになる。」

 

 とにもかくにも、院(上皇)=治天の君というものは絶大な権力を持っていた、ということだ。

 そこから番組は、崇徳自身の話へ。

 

「和歌の才能に恵まれ、歌会を頻繁に主催するなど、宮廷でひときわ輝く存在だった。」

 

 崇徳の和歌に関して、藤原清輔によって書かれた歌学書『袋草紙』は、藤原顕輔が『詞花和歌集』(崇徳が編纂を命じた勅撰和歌集)を崇徳に総攬した際の逸話を載せる。崇徳は「御製少々ならびに藤原範綱・頼保・盛経等の歌を除かる」という行動に出たという(藤岡忠美校注『新日本古典文学大系29 袋草紙』)。気に入らないものは、自分の歌でさえも削ったという。自作の歌も、厳しく評価していたようだ。崇徳の歌へのこだわりの強さがうかがえる。

 他に、『今鏡』は、「崇徳院が幼いときから和歌を愛好され、隠題や紙燭の歌などで、技巧と速詠の修練をつみ、うちうちの歌会をかさねて、本格的な歌会を催されるに至ったこと」や崇徳院が歌を日ごろから詠んでおり、「めづらしくありがたき御歌ども多く聞え侍りき」といったように、崇徳の歌が優れていたと記している(竹鼻績『今鏡(上)』)。

 順風満帆に見えた崇徳の人生だが、雲行きが怪しくなるのは1141年。異母弟・近衛への譲位。崇徳の「コハイカニ」という反応が紹介されていたが、これについては過去記事の『愚管抄』のエピソードを参照いただきたい。番組では詳細は触れず。続いて、元木氏自ら「院政天皇直系尊属でなければできない」という以前私も引用させていただいた話を語る。これでは崇徳は将来的に院政ができない。こうして崇徳は実権のない上皇へ。

 14年後、近衛天皇が早世。だが今度も皇位は崇徳の息子・重仁親王ではなく、同母弟の後白河へ。番組では、後白河の評価として「イタクサタヾシク御アソビナドアリトテ、卽位ノ御器量ニハアラズ」という『愚管抄』の記述が紹介されていた。これは鳥羽が後白河に対して思っていたことだという。それでも、鳥羽は後白河を次の天皇に据える。ちなみに、この後白河への評価としては、『保元物語』で崇徳は「文ニモ武ニモアラヌ四宮(後白河)」、後ほど登場する藤原頼長は「文武共ニカケ、芸能一モ御座ヌ四宮」と言っている。頼長の方がより辛辣。また、何よりも有名なのは、九条兼実の日記『玉葉』の寿永三年三月十六日条。「通憲法師」こと後白河側近の藤原信西が、「和漢之間少比類之暗主也」(超意訳:こんな暗君はそうそういない)と後白院を評しつつも、その記憶力のよさなどについても述べていたことであろう。後白河自身も「今様」という歌に熱中しすぎるなど、身から出たさびでもあるのだが。評価が最悪で馬鹿にされまくっている後白河だが、後に鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝が、彼の老獪さを「日本一の大天狗」と評することになるのは、また未来のお話。

 

 元木「まさに想定外の出来事(中略)後白河の後は彼の息子(守仁親王)が継ぐわけですから、天皇家皇位というのは後白河の子孫が継承していくわけですね。崇徳の子孫は皇位から外される。これは崇徳にとってはこの上ない屈辱であり、激しく憤ったと思いますね。」

 

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 なぜ鳥羽から崇徳は排除されるのか。ここで出ました『古事談』。叔父子。これについては過去記事を参照のこと。噂を流したのは後白河派の公家とも言われる、という点にも触れる。この辺は美川圭氏の『院政』の説などを採用したものだろうか。そのまま叔父子説を信じて採用せずむしろこちらの側面が強いといったように描いた点は評価したい。

 ナレーション「この泥沼の確執が、のちの怨霊伝説誕生の引き金となっていくのである。」

 また不穏な…

 ここで一旦スタジオへ。「崇徳上皇ってどんな人だと思いますか?」という問い。

 

 磯田「きらびやかさと危うさが生涯あった人。5歳で天皇、歌もうまい。でも父とされてる人は父じゃないんじゃないかという出生の秘密がささやかれ、なおかつ、この人先行き危ないよねって言う風に思われてた節がある。周りからすると今きらびやかだけど転ぶよねあの高いところにいる人って危うさを自覚しながら生きていた人。精神衛生上よくない。」

 

 「きらびやかさと危うさ」なるほど。確かにこんな状況に置かれたら、そうなるのも仕方あるまい。まさに「精神衛生上よくない」である。

 

 夢枕「すごく不幸な人。その不幸をきっと誰よりもよく分かってたであろう人。その原因とかもね。自分がいろんな人間に利用される立場なんだというのもわかっていた方だと思う。これは相当な不幸だろうと思いますよね。今日のお話は文人をいじめると怖いぞという話」

 

 父親から排除され続け、最期まで不遇。確かに「不幸な人」であろう。「文人をいじめると怖いぞ」は他にも当てはまる歴史上の人物がいそうだ。

 

 山田「非常に和歌がたくさん残っている。伝統的な世界で生きてきた人。時代が移り変わる中で翻弄されていく」

 

 萱野「崇徳上皇自身に興味があるが、崇徳上皇を最強の怨霊にした人々の意識にも興味がある。こういうことをされたら誰でも死後まで恨みつらみを持っていくだろうなという人々の道徳意識とか、秩序意識があるってことですよ」

 

 和歌、そして怨霊に関する話と関連付け。怨霊を生み出すのは、今生きている者の意識である。生前、その人を追い落とした人の後ろめたさかもしれない。

 この後、院政の話へ。磯田「院政は最初の身分破壊であり慣習破壊」夢枕「天皇の方が儀式などで忙しい、院はそれがない、でもそれなのに権力があるといういいポジション」山田「院になると何とか院領という荘園(財産)が非常に集まる」萱野「院は権力者が強欲を解き放たれた状態」という話など。

 

 磯田「平安時代だから平安だと勝手に思っちゃうんだけど院政期からちっとも平安じゃない」

 

 院政の時代以前も平安ではないと思う。権力闘争と政敵を追い落とすための謀略事件がたくさんあるので戦争にはならなくとも全く平安ではない。菅原道真の失脚などもそれだ。

 

 夢枕「崇徳上皇は権力持たないで、NO.3ぐらいでいいので、まあ好きな歌を詠んで、時代がどんなに変わっても自分は三番目くらいでやっていけたらという発想があったら違う人生あったかなと。でも周りがほっとかないからね」

 

 結局のところ、この時代に天皇になる者として生まれた「宿命」なのだろう。ゆえに、「周りがほっとかない」=利用する者が現れるのである。

 続きは次回で。

 

 

 

 

愚管抄 全現代語訳 (講談社学術文庫)

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「ひとりだけどひとりでない空間」のすすめ

 「ヘタウマ」な漫画を描き、最近はテレビ出演も多い蛭子能収さん。そんな蛭子さんの著書に、『ひとりぼっちを笑うな』という本がある。

 

 

 この本では、蛭子さんが自身の思うこと、経験などに触れ、一人で自由に生きることについて様々に意見を書いている。最初に、蛭子さんは内向的過ぎるのもダメだし、別に外向的であることを否定していないという点は断っておこう。

 本の中で、私が非常に共感できる部分がある。「ひとりだけどひとりでない空間」という項だ。どういうことか。蛭子さんは、自分が高校時代に美術部に入っていたというエピソードを紹介。そして、各自がほとんど会話もせず、黙々と絵を描く作業をしているという時間が、「僕にとってはなによりも充実のときだった」と振り返る。

 

 「それはそれは、静かなものですよ。でも、ひとりきりで描くよりも、そうやってみんなで集まって描くほうが、なぜか作業がはかどるんですよね。」

 

 そのうえで、蛭子さんは「ひとりひとりを取りだしてみたら、それは孤独に作業をしているということになるのかもしれない。でも、その孤独は悪い孤独ではないというか、少なくとも、ひとりぼっちな感じはまったくしないんですよ」と述べている。

 他にも蛭子さんは家ではなく図書館に出かけて勉強をするという行為も似たようなものだと言い、自分が競艇場や映画館に行くこと、それも「ひとりだけどひとりじゃない」空間であると説く。図書館に関しては、「個々が目指す具体的な目標はバラバラでも、「勉強をする」という大きな目的においては共通する集団のなかに、あえて自分の身を置いてみる」ことで、勉強がはかどるのではという解釈をしている。

 なるほど、図書館では、自分の他に勉強している人はふつう顔見知りではないし、わざわざ声をかけたりもしないだろう。それぞれが黙々と勉強に精を出す。しかし、「大きな目的においては共通する集団」に自分も自然と所属しているということになる。それが自分の集中力を高めることにも繋がるのだと。蛭子さんが他に例示した「競艇」はギャンブルを楽しむという目的があり、「映画館」は同じ映画を見るという目的がある。個々人は顔見知りでも何でもなくとも、やはり同じ方向(目的)を向いているのだ。蛭子さんは、自分は昔からこういう場所を自然と見つけ出してきたから、孤独を感じずにいられたのかもしれない、とこの項を結んでいる。

 私が思い浮かんだ例は、まずライブだ。当然一人で行くことも多い。いざ開演すれば、多くの人はステージの演者に注目する。そして、ライトを振るなりコールをすることで、盛り上げる。自然と観客側に一体感が生まれてくるのだ。ライブを楽しむ人々=「大きな目的においては共通する集団」であろう。

 他に、コミケなど同人誌の即売会。そういえば、『干物妹!うまるちゃん!』の小説版にて、切絵ちゃんが師匠のためにコミケに行くという話がある。そこで、コミケについてこんな描写がある。

 

 「版権キャラの卑猥な姿が見たい!そんじょそこらじゃ見られないエロスを堪能したい!そう考える人間は、結構な数に及ぶらしい。この異常な混雑ぶりを見ていればそれもわかる。」

 

 そういったジャンルのものばかりではないということはこの後に語られるが、つまりはそういうことだ。己が欲望・目的のために押し合いへし合いが生まれたりする混沌の地である。個々人の求める獲物は違えど、目的は共通しているのである。何より、あの夏・冬の祭りに参加している!という一体感を感じる人もいるのではないか。ライブやコミケが終わった後は、どこか寂しく感じたりするものだ。

 それは、こうしたイベントは、学校や仕事とは異なる「非日常」の行事であり「ハレ」だからだろう。そして、それは自分で率先して参加する。嫌々参加させられる行事に対しては「寂しい」という思いなどは起きず、「早く終われ」という思いしか残るまい。蛭子さんが例に挙げた「勉強」は嫌々の場合もあるだろうし、日常の風景かもしれない。しかし、家に籠って勉強するのと、外の図書館に出かけていくのと。家は毎日同じ風景しか見られない。しかし、図書館への行き帰りの道、中の雰囲気。どこか違うという発見があるかもしれない。何より、「図書館で勉強する」という行為は、「自分で率先して」その場所に行っているということだ。

 私も蛭子さん同様、一人で何かそういったイベントに参加しても、孤独を感じることはない。「大きな目的においては共通する集団」に自然と所属しているからだ。もちろん誰かと参加する場合も、それはそれで別の楽しみがある。しかし、そう毎回お互いの都合が合うわけでもない。皆さんも、ぜひ「ひとりだけどひとりでない空間」の存在に気づいてみてはいかがだろうか。

 

 さて、このブログであるが、次回更新は未定である。飽きたというわけではない。ひとまず自分の頭の中にあった構想が、全部文章化されたということだ。そのうち思いつくのだろうが、今は特にない。積読も読まねばならないし、他にもやることがある。本を読み、自分の中の知識もアップデートしていかなければ、ネタも生まれないというものだ。

 もし、何かネタをもらえれば、それで書こうと思う。遠慮なく言ってもらいたい。

 

干物妹!うまるちゃん N (JUMP j BOOKS)

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「大人になること」と「夢」と社畜と~『ポプテピピック』挿入歌、『白く咲く花』、『すかすか』、『りゅうおうのおしごと!』など~

 大盛況のうちに最終回を迎えたポプテピピック。その最終回において、久々にフェルト人形が登場して歌うパートがあった。『心の大樹』である。作詞は原作者の大川ぶくぶ先生。「雨や風寒さに負けずあの木は強く育つだろう それこそが大人ってもんだ(文句言うな)」で始まる感動的なメロディーの卒業ソング…かと思いきや。その後の「頑張ってない証拠だぞ」といった発言に対して敢然と「こーろーすーぞー♪」と言い放ち、大暴れするその映像とやりたい放題の歌詞は見る者に衝撃を与えた。「それこそが大人ってもんだ」と「頑張ってない証拠だぞ」は学校を卒業し、大人の仲間入り=社畜になる(なった)者に対する理不尽な発言を抜き出した、現代社会の風刺なのかもしれない。そもそもこのクソアニメは何でもありなので、わざわざ歌詞について考えるだけ無駄かもしれないのだが。「大人」と言えば、ピピ美が「明日までに私のほうが先に大人になっちゃったらどうするか考えておいて」とポプ子に言い、それまでゲラゲラ笑っていたポプ子は茫然自失になってしまう、という話もあった。

 さて、ここから無理やり関連付けていく作業が始まる。この記事は、私の好きな曲の歌詞や作品から、「大人になること」と「夢」について考えていくものである。

 『星色ガールドロップ』にて、星降そそぐを熱演した小倉唯さん。彼女は、この春大学を卒業した。そして、「卒業」をテーマにした曲をリリースした。それが『白く咲く花』である。

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 上に示したのは公式チャンネルがアップしているMVなので、未視聴の方はぜひ見ていただきたい。そして彼女はインタビューの中で、この曲は「学校というものから解放されて、また新しいステップへと踏み出すことを現実的に捉えた曲」であると語っている。また、歌詞についても自分でこうして欲しいという希望を出したという。作詞者は、『けいおん!』の楽曲の作詞を担当していた大森祥子さん。

 この曲の歌い出しは「咲かせたい夢に今羽ばたく」。いかにも夢に向かって飛び立つという希望を感じさせるものである。この後も同じく希望に溢れた歌詞が続くが、途中で「光 希望 ばかりじゃない絶望感じるのも標準装備(スタンダード)歪な心抱いて」と歌う。一見夢と希望に満ち溢れた巣立ちかと思いきや、現実はそう簡単ではない。このような不安も胸に抱いた巣立ちなのである。

 そしてサビ。

 

 「本音を曲げて 嘘ついて 得る正解って何だ? 本当に"欲しい" ただ"したい"ことに生きていたいんだ 一途さを武器に 摘まれぬ芽になれ涙さえも 花や実を育てるちからに 向かい風に発て今 気高く」

 

 社会に出たなら、自分の言いたいこと(本音)を曲げ、おべっかを使う、嫌だけど同調する、自分に嘘をつくということもあるだろう。『心の大樹』の歌詞を引けば「それこそが大人ってもんだ(文句言うな)」である。ここでは、そのことに疑問を呈すとともに、私は自分の思いを大切にしたいと歌い上げる。

 2番のサビも、その精神を引き継ぐ。

 

 「長きに巻かれ 影隠れ 得る平穏って何だ?本当に“いとしい” ただ“尊い”ことに尽くしてたいんだ 汚れたって綺麗無傷の清らはとっくに 少し 似合わない季節(ばしょ)まで来たから」

 

 これもやはり、社畜の皆さんであれば経験があるのではないだろうか。社畜でなくとも、これまでの人生の中でそうした経験がある人は多いに違いない。長いものに巻かれることは、波風を立てずに「平穏」を得ることができる手段である。そんなことがまかり通るような世界には行きたくないだろう。しかし、それでも「少し似合わない季節(ばしょ)」=「卒業」と同時に、こうした世界へ向かわねばならない。これ以降はぜひCDで聴いていただきたい。しかしそれでも、自分の思いや夢を信じ、大切にしたい。向かい風だとしても、私は夢に向かって旅に出る。凛とした歌詞である。

 また、小倉唯さんには『Tomorrow』という曲もある。涙の数だけ強くなれる、アレではない。こちらの歌詞はこうだ。

 

 「何がそんなに怖いの?誰の許可が欲しいの? 外では本音グッと飲み込み 厚塗りの笑顔 I don't needそれが大人というなら私はまだいらない 誰かの評価よりもこの目で見たものを信じたいよ」

 

 ここでも大人(社畜)になるとよくある状況が挙げられ、「それが大人というなら私はまだいらない」と大人になることを拒否しているようにも思える。しかし、それでも自分の道を夢に向かい進んでいくという前向きな曲である。他に、「世の中に馴染むような美しいだけの色なら興味ない」という歌詞もある。これはいわゆる「同調」を拒否するということか、個性を大切にしたいということか。欅坂46は『不協和音』で「僕はYesと言わない首を縦に振らない周りの誰もが頷いたとしても「みんな揃って同じ意見だけではおかしいだろう」と歌った。こうした同調圧力もまた、個性を殺し、画一化を企図し、従順な人間を生み出す。「支配」する側にとって都合がいい人間が誕生するというわけだ。

 さて、大人になると、こうした不条理を受け入れねばならないのか。社畜にならねばならないのか。そもそも大人になるとはどういうことか。ゲーム『ぼくのなつやすみ』シリーズでも、大人と子どもの違い、のような会話がなされることもある。他に、武田鉄矢さんの『少年期』。そこには「ああ 僕はどうして 大人になるんだろうああ 僕はいつごろ 大人になるんだろう」という歌詞がある。しかし、この曲の中ではその「答え」は示されていない。

 大人になるとはどういうことかという問いに対して、私がとても納得できた意見があるので紹介しよう。このブログでも何度か触れている、『終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』の外伝のエピソードにおける、やり取りである。詳しい設定などは省略するが、いわゆる「大人」のナイグラートと、少女であるクトリの会話だ。「わたし、子供じゃない」と言うクトリに対して、ナイグラートは「そういうこと言ってる間はお子様なのよ?」と大人の余裕を見せる。クトリは「……嘘。じゃあ、いつになったら大人になれるっていうの」と問う。ナイグラートはこう答えた。

 

 「そうねぇ。『子供に戻りたい』って本気で言い出した辺りかしらね」

 

 子どもの頃は、「早く大人になりたい!」と多くの人は思うものだ。親が酒を飲んでいるのを見て羨ましがったり、かっこいい車を運転していたり。そういったものに対する「憧れ」が、早く大人になりたいという気持ちを生み出す。父は、平日は社畜生活、休日は子どもだった頃の自分や母を連れて、どこかに出かけたりする。今思えば、そんな生活は大変だっただろうな、と感じたりする。大人になるとそれに伴う「責任」も増えていくが、家族に対する責任もその一つであろう。前米副大統領であるジョー・バイデンは、ドナルド・トランプに対し「大人になれ」と言った。「いつまでもガキのままじゃいられない。ガキみたいなことはやめて、責任ある大人になれ」という趣旨だろう。

 子どもの頃は将来への不安などといったものは存在しない。「サッカー選手になりたい」という夢を持ち、それを公言していても、無理だなどと言われたりはしない。しかし、だんだん大人になるにつれ、「現実」というものがわかってくる。そもそも望んだ誰もがサッカー選手やプロ野球選手になれたら、世の中は回らないというものだ。

 では、大人になるとろくなことがないのか。前半では、小倉唯さんの曲の歌詞を示し、自由に論評した。その中で、大きなテーマとなっていた「大人になること」と「自分の夢をかなえること」の相関性について考えよう。「戦姫絶唱シンフォギア」一期の10話において、風鳴弦十郎は、次のような名言を残している。

 

 「いい大人は夢を見ないと言ったな。そうじゃない。大人だからこそ、夢を見るんだ。大人になったら背も伸びるし力も強くなる。財布の中の小遣いだってちっとは増える。子供の頃はただ見るだけだった夢も大人になったら叶えるチャンスが大きくなる。夢を見る意味が大きくなる。」

 

 なるほど、頷ける意見である。子どもの頃は、親から少しの小遣いをもらい、お菓子を買ったりするものだ。しかし、大人になると、自由に使える金は子どもの時よりも増える。買えなかったゲームでも漫画でも、好きなものを買ったりできる。これは確かにいいことだ。大人になれば親から「あれはダメだこれはダメだ」と叱られることもあるまい。大人ならではの自由を手に入れることができるのだ。

 そして、「子供の頃はただ見るだけだった夢も大人になったら叶えるチャンスが大きくなる」という部分。夢はなんでもいいだろう。私の知人には、声優になりたいと思って学校に通っていた人もいるし、お笑い芸人としてブレイクしようと日々活動している人もいる。最終的には叶わなかったとしても、大人になると、子供の頃から持っていた夢に挑戦することはできる。

 先日、アニメが最終話を迎えた『りゅうおうのおしごと!』。その中に登場する、清滝桂香。彼女は幼い頃から夢を持ち、女流棋士を目指していた。しかし、年齢制限が迫り、このままではその道は絶たれてしまう。そんな桂香の葛藤を描いたのがアニメ版7話の内容である。逆に、こちらでは大人になること=夢への道を断たれる、ということになってしまうのだ。そして、この回の特殊EDとして使われたのが伊藤美来さんの『あの日の夢』である。

 

 「やっぱり私 諦められそうにないよ あの日の夢 届かないとしても

 「それでも私 諦められそうにないよ 痛みの先 強くなれるのなら どんなに ボロボロでも構わないもう一度 翼広げ夢に見た空へと 」

 

 子どもの頃に抱いた夢を、諦められずに大人(桂香は26歳が迫っている)になっても、追い続ける。「「私は どうしてここにいるんだろう?」 当たり前の幸せすら捨てて」という一節もある。夢を諦めれば、人並みの、「当たり前の幸せ」は得られるだろう。それを捨ててまで、どうして夢を追い続けるのかと。原作では、同窓会で仕事や恋愛や結婚といった「当たり前の幸せ」の話を聞いた桂香が、それを羨ましいと思う場面が描かれる。大人になっても夢を追い続けること。それは尊いことでもあり、同時に苦しいことでもある。

 今回も長くなった。次回更新を以て、私は一旦積読処理に向かうつもりだ。

 この記事を読んでいる貴方は、今、「子供に戻りたい」と本気で思っているだろうか。それとも、大人のままでいいと思っているだろうか。

 

「白く咲く花」【期間限定盤】

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少年期

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積読はなぜ増えるのか考えよう―積読の種類

 以前の記事で、積読について様々に述べた。

 

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 では、そもそも積読はなぜ増えるのか。「それはお前が前に買った本を読み終わってもいないうちから新しいのを買うからだろう」で終了かもしれない。今回はこのくらいにしておこうと言いたいところだが、確かに「前に買った本を読み終わってもいないうちから新しいのを買う」という行為が原因であることは疑う余地のない事実である。今回は、そのことについて、もう少し細かく見て行こうというわけだ。

 自分の積読リストを見ていると、あることに気づく。積読にも種類がある、ということだ。どういうことか、説明していこう。

 

①内容が複雑、難しい学術書・新書

 まずはこれだ。学術書や、中公新書など安価でコンパクトでありながら内容がしっかりした新書がこれに当てはまる。新書に関しては、この「安価でコンパクト」という点が逆に曲者だ。学術書のように一冊何万円もするものではないので、値段に悩むことなくすぐに買ってしまうというわけだ。更に、コンパクトなので置き場所にも困らないときた。そして、以前の記事にも書いたが、本を読むという行為は時間・体力を消費するものだ。せっかく読むからには、内容をしっかり理解していきたい。書かれている内容を反芻しつつ読むと、その本を読むのにかかる時間はより長くなる。厚みのある学術書・新書であるならば当然である。こうして、「まとまった時間ができたらいつか挑もう」と思っているうちに、読む機会を失していくのである。学術書に関しては、とりあえず資料としていつか使えそうだと思って買う。すると、いざ使うという時にすぐに見れる、という安心感を得られるのである。

 

②上下巻ないし上中下巻で完結の小説

 次はこれだ。上下巻完結の小説は、まだ先ほどの①と比べれば楽な方だ。上巻を読んでみて、面白ければそのまま下巻へとすんなり入っていくことができる。しかし、上中下巻ともなると、やや気後れするかもしれない。上中下巻にとどまらず、4巻、5巻と続いていく小説(ライトノベル含む)は、1巻が面白くなければそれ以降の巻を読むのをやめる。ゆえに、自分が面白いと思ったものしか残らない。しかし、上下巻ないし上中下巻で完結しているものは別だ。私の場合、「既に完結していて二冊ないし三冊だ」という理由から、最初にとりあえず全部買ってしまう。買った瞬間は面白そうだと感じていたはずなのに、いつの間にか積読化してしまう。

 

③冒頭だけ読んで入っていけない、合わないと思った本

 これは以前の記事において、花澤香菜さんも言っていたものだ。表紙の裏の説明や、他の人のレビューを見て面白そうだと思って買ったはいいものの、いざ読んでみたら「合わない」と思い読むのを止めてしまうもの。これまで読んだことのない作家の小説に手を出した時などに特に起こりやすい現象である。それで、自分が好きな作家の本などに逃げてしまうというわけだ。その人の作風や文体なども知っているから。

 また、これは小説に限った話ではない。よく知らない時代の歴史などに興味を持った場合。自分がよく知っている、好きな時代の歴史の本であれば、知識などもあるため読みやすい。しかし、そうではない時代や国について知るために本を読む場合。これは知識がない。せいぜい断片的に人名などを知っている程度だろう。だから、なかなか入って行けず、最初だけ読んで別の機会に回してしまうというものだ。

 

④途中まで読んだが、しばらく放置してしまった本

 これは③の派生形かもしれない。途中まで結構楽しく読んでいたのだが、仕事などが重なり、読む時間がなくなってしまった。それで、しばらく放置した結果。久々に手に取ると、その本の内容を忘れはしなくとも、以前栞を挟んでいた途中から読むと、なんだかモヤモヤとした気分になるのである。この感覚、分かる人と分からないという人がいるに違いない。しかし、また改めて最初から読むのも億劫というものだ。最終的に、また暫くしてから読もうという判断によって、その本は肥やしになっていく。

 

⑤書かれている情報が古くなってしまった本

 これは時事問題、政治などを扱った本に目立つ。言うまでもなく、時間は流れていく。その時間の中で、世の中には日々動きがあり、変化する。しかし、その話題が旬であった時期に出版された本はどうだろう。その本に書かれた内容は、変化=アップデートされない。出版された当初に何らかの理由で読まずに放置した結果、その本に書かれている情報は古い=現実の状況に追い付いていない、ということで読まれなくなるということだ。こういった本は鮮度が一番、買ったらすぐ読めということだ。

 

 以上、①から⑤まで、積読の種類について考えてみた。上記以外の分類があるという方も、もしかしたらいるかもしれない。私も昔、やや特殊な例があった。移動中や待ち時間に読もうとかばんに本を入れておいた。ある日、突然の大雨に遭ってしまった。傘は持っていなかった。それで、本が濡れたのである。破れた、インクがにじんで読めなくなった、という状況にはならなかった。しかし、乾かしてもゴワゴワの状態になってしまい、気分的に嫌になってしまったのである。こんな理由もあるものだ。

 ゲームや映画など、今は他のことが面白いので本を読もうという気にはならない、疲れて本を読む気が起きないという時期もある。以前も似たようなことを書いた気がするが、本を読むことは楽しいが、同時に体力がいることでもあるのだ。それでも我々は、地道に積読と向き合っていく。

 だから、最後はやはりこんな記事を書いてる暇があったら1ページでも読めという結論に至るのである。将棋の羽生善治氏の本をいくつか積んでいるので、そこから読んでみるか。

大学1年時、最初の人間関係構築とSNS

 四月に入り、新年度のスタートとなった。今日も駅にて通勤・通学定期を買い求めるために並んでいる人の列があった。この記事を読んでいる人や、私のツイートを見ている人は、この四月から新大学一年生です、という人は極めて少数だろう。既に卒業している人や、高卒で働いているという人が多いと思われる。

 さて、この時期よくあるのが「大学デビュー」である。これについて、古谷経衡氏が面白い定義づけを行っているので紹介したい。今回はこの話をしたいわけではないので、簡単に。

 

 「具体的には、高校時代まで地味で目立たなかった学生が、大学進学を契機に一挙に外見が派手になり、まるで性格ががらりと変わって別人になったかのように社交的になり、大学の学生生活を謳歌する(ように見える)人々に格上げされる動態をさす。」

 

 高校ではパッとしない生活を送っていたが、心機一転。髪を染めたりして、新しい人間関係を築いて俺もリア充ライフを送ってやるぜ、という目論見だ。この後、古谷氏は自身の体験などを例に見解を述べていく。私立大学に関しては「内部進学生」が多くおり、既に「彼らの縄張りが強固に張り巡らされて」いる状態である。そして、「校内の人的関係はまずそのグループによってリードされる」という状況などについて語っていく。興味を持った方は、古谷氏の『「意識高い系」の研究』(文春新書)を読んでいただきたい。大学デビューは幻想だったのか。

 

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)

 

 

 さて、めでたく大学に入学。そこでの最初の友人関係について、先日「内田雄馬日高里菜のラジオもりゅうおうのおしごと!」というラジオを聴いていたら、こんなやりとりがあった。第11回での二人のやりとりである。

 

内田「最近さ、入学するときに、SNSがあるじゃん?アレで先に、なになに校に進学します、お友達になりましょうみたいなのやるらしいよ」

日高「そうなんだよ!私大学に入るときに皆SNSでもうね、仲良くなってんの。だから、入学式的なのあるじゃない?もう友達と集合して行ってんの。怖いよね!」

内田「入学式なのに?」

日高「そうだよ。そこで初めて出会うはずなのに、もうお友達からスタートで。むしろその前に一回会ってるからね。皆(先に)集まって、仲良くなってからの入学式で。」

内田「なんかそれはそれでさ、やっぱ入学式で初めて会って、はにかみながら、あっ、どうも、みたいなのやりたいよな。」

日高「私さSNSやってなかったから、一歩出遅れた感。しかも入学式も私行けなくて、しかも説明会にも行けなかったの。だからもう最初ずっと一人で。」

内田「出来上がってんなあ既にみたいなね。」

 

 確かにこういった話は何度か聞いたことがある。実際、Twitterで検索をしてみると、そういったツイートは多くヒットする。内田さんの言うように、既に人間関係が出来上がっているようなのだ。誰もがスマホを持っている時代ならではと言える。

 私の場合、入学式以前にその学科の新入生が集められる説明会が数度あった。私も推薦で入ったため、学科は違えど高校での友人が数名同じキャンパスに進学してきていた。これはちょっと心強い。私は人間関係のリセットも兼ねた大学デビューは望んでおらず、むしろ古谷さんの言う「内部進学生」側の人間なのである。説明会では、履修に関する話など基本的なことが様々説明される。思えば私は、そこで内田さんの言うような「はにかみながら、あっ、どうも、みたいなの」をやっていた。説明会は席が決められており、自分の学籍番号が書かれた場所に座る。その近くの人に話しかけたり、話しかけられたりして少しずつ輪を広げるのだ。「どこの高校から来たんですか?」で始めてそこから話を広げるもよし、「いやあ説明会来たけど覚えること多くて大変ですね」でもいいし、「おっ、そのソシャゲ自分もやってるんですよ」でも切り口はなんでもいい。同じ学科に進学して来た人なら、何か自分と共通するものを相手も持っているはずだ。

 その後、ゼミの前段階のような、発表を中心とした講義用の、いくつかある少数クラスへ適当に振り分けられる。そこでもまた、少しずつ輪を広げていった。こうしたことを続けたことにより、いつの間にか7人ほどのグループが出来上がった。一年時は、全員が受ける必修講義も多い。ゆえに、顔を合わせることも多くなる。一緒に講義を受けているうちに、自然と打ち解ける、大学にも慣れていくというわけだ。また、私の大学では卒業までに体育関係の単位も一つ取らなければならなかった。チーム競技ではなかったが、体育でぼっち参加というのは辛いものだ。そこでも「一緒にこれ取ろうぜ」ということで、それを回避する。ちなみに私は一年の前期で必修を一つ落としたが、同じく落とした友人と一緒に翌年再履修、無事単位認定となった。だって記述式だし持ち込み不可だし(言い訳)。

 さて、話を戻そう。SNSで事前に友人関係ができあがっている状態がいいか、入学式や説明会で初顔合わせ、そこから友人になる、というのがいいか。私はどちらでもいいと思う。どちらでもいいが、個人的には後者の方が好きである。SNSで先んじて人間関係の構築を望む。それは本当に社交的な人間で、友達がたくさん欲しいという人もいるだろう。しかし一方で、「絶対にぼっちを回避したい」という思いから、SNSで知り合うというやり方を採用する人もいるのかもしれない。そこにあるのは「焦り」と「不安」だ。特に地方から都市部の大学へと進学してきた人は、両親もいない新天地で完全に孤立する恐れがある。

 しかし、SNSをやっていなくとも、説明会の休憩時間などに、少し話しかけてみればよい。それが難しいんだよ、と思う人もいるだろう。だが、「なんだお前」と言われたりはしないはずである。ある程度のグループが出来上がっていても、私の友人などは堂々と話に入って行ったりしたものだ。グループができていると言っても、彼らもまだ会ったばかり。ゆえに、まだ付き合いが浅い。逆に、今を逃してしまえば終わりだと考えるべきだ。時間が経てばたつほどグループは固定されていき、サークル勧誘なども始まりますます人間関係は固まっていく。

 やるなら今しかない。何もせずぼっちになるか、最初に話しかけたりしたが結局失敗してぼっちになるか。結論は同じでも、前者の方がいいのではないか。ぼっちでは卒業できないかと言えば、そんなことはないのだ。ぼっち飯も後ろ指を刺されるといったことにはならない。そう感じるのは「気にしすぎ」である。高校まではクラスがあり、何をするにも全員一緒というのが嫌だったが、大学ではそういう縛りもゼミなどを除けばほぼなく自由だ、と思うのもまたよしである。

崇徳院と戦姫絶唱シンフォギアの風鳴翼―後編:翼と八紘、訃堂から崇徳・鳥羽まで

 前回の記事では、崇徳院の出生に関する問題を、史料や先行研究をもとに整理した。父親の鳥羽院との関係についても述べた。

 

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 さて、今回は『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズにおける、風鳴翼の出生と父親との関係について述べていきたい。翼は、自らを人類守護のための「防人」であると位置付ける。GX(三期)では、錬金術師と戦うことになる。 

 まず、風鳴家について説明する。翼の父は風鳴八紘(かざなりやつひろ)、八紘の弟に風鳴弦十郎(かざなりげんじゅうろう)、八紘と弦十郎の父親は風鳴訃堂(かざなりふどう)である。翼から見ると、訃堂は祖父にあたる。八紘は内閣情報官。弦十郎は、翼も所属する超常災害対策機動部タスクフォース組織・S.O.N.G.の司令。この組織については、公式用語集を参照していただきたい。

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 訃堂はGXでは名前とうっすらとした姿のみ登場。この人物が作中で実際に話すなどするのは、次のAXZを待たねばならない。彼はS.O.N.G.の前身組織の司令だったが、その座を弦十郎に譲り渡してからも、日本の国防政策に対して大きな発言力を持つ重鎮であるようだ。

 さて、シンフォギアGX第9話「夢の途中」を視聴していない読者の方は、「崇徳院と何の関係があるのか」と思われるかもしれない。先に言ってしまおうかと思ったが、初見の人は知らないで読んだ方がいいだろう。だいたい予想できそうだが。

 まずは、その9話をみていこう。S.O.N.G.は、敵の錬金術師の狙いを割り出した。その中には、翼の実家である屋敷も含まれていた。そこにある「要石」の破壊が目的である。派遣されたのが翼とマリア、そして風鳴家に仕えている忍者の家の末裔で、翼のマネージャーの緒川。屋敷に到着した際、八紘は緒川とマリアには声を掛けるが、翼には一言も触れずに去っていこうとする。翼は「お父様!」と呼びかけ、

 「沙汰もなく、申し訳ありませんでした。」

と詫びる。一方で、八紘は翼に背を向けたまま、

 「お前がいなくとも、風鳴の家に揺るぎはない。務めを果たし次第、戦場(いくさば)に戻るがいいだろう。」

 このように応じる。終わったらさっさと帰れと言っており、極めて冷淡である。マリアはその態度に憤慨し、

 「待ちなさい!あなた、翼のパパさんでしょ?だったらもっと他に…」

 このように非難するが、翼は「マリア、いいんだ…」と止める。「でも!」と食い下がるマリアに、翼はなおも「いいんだ…」と寂しげに声を掛ける。この時点では、マリアも、そして視聴者も、なぜこんなに二人は不和のように見えるのか、という理由を知らない。

 その直後、敵の錬金術師の送り込んだ自動人形・ファラが襲撃に来る。そこで翼は八紘に対して「ここは私が!」と言い、八紘も「うむ、務めを果たせ。」と応じる。ここでは先ほどよりはまだ淡々としていないが、当たり前のことをやれ、と言っているだけのように聞こえる。翼はファラに敗れ、要石も破壊されてしまう。ファラは「目が覚めたらまた改めてあなたの歌を聴きに伺います」と翼に伝えるように言い、撤退。

 目覚めた翼に対し、八紘が呼んでいると呼びかけるマリア。翼たちは、次の敵の狙いについて話し合う。そして、八紘は、こう声を掛ける。

 「翼。傷の具合は?」

 ここで翼は、やや意外そうな顔をする。まさか自分を気遣うような言葉を掛けてくれるとは思っていなかったのか。翼は、「はい。痛みは殺せます。」と応じる。さて、問題はここからだ。八紘は、

 「ならばここをたち、しかるべき施設にて、これらの情報の解析を進めるといい。お前が守るべき要石はもうないのだ。」

 と言う。またマリアが怒る。

 「それを合理的というのかもしれないけど、傷ついた自分の娘にかける言葉にしては、冷たすぎるんじゃないかしら。」

 翼は「いいんだマリア。…いいんだ。」とまた寂しげである。部屋を出た後も、マリアは「家族のつながりをないがしろにして!」と怒る。マリアは自身の境遇から、こういうところを大事にする。翼は「すまない。だが、あれが、私たちの在り方なのだ。」と答える。翼は自分の子供の頃に使っていた部屋に、マリアを案内する。翼は一期の頃から部屋の片付けが苦手であるという設定がある。この部屋も、そのまま散らかりっぱなしであった。翼は「幼い頃にはこの部屋で、お父様に流行歌を聞かせた思い出もある。」としみじみと語る。確かに部屋にはマイクなどが置いてある。翼の幼少期は、八紘は翼を遠ざけてはいなかったということか。この点は後ほど。

 そして翼は、語り始める。

 

 「私のおじい様、現当主の風鳴訃堂は、老齢の域にさしかかると、跡継ぎを考えるようになった。候補者は、嫡男である父・八紘と、その弟の弦十郎叔父様。だが、おじい様に任命されたのは、お父様や叔父様を差し置いて、生まれたばかりの私だった。理由は聞いていない。だが、今日まで生きているとうかがい知ることもある。どうやら私には、お父様の血が流れていないらしい。風鳴の血を濃く絶やさぬよう、おじい様がお母様の腹より産ませたのが、私だ。」

 

 そして昔の回想。幼い翼に対し、八紘は「お前が私の娘であるものか!どこまでも汚れた風鳴の道具に過ぎん!」と辛辣な言葉を浴びせる。この点、『古事談』にある、鳥羽が崇徳を自分の子ではないと知り、「叔父子」と呼んでいたという点と重なる部分があると思う。ちなみに、八紘と翼のこのやりとりは、これ以前の第6話においても、翼の精神世界の描写として存在する。

 翼は更に語る。「以来私は、お父様に少しでも受け入れてもらいたくて、この身を人ではなく道具として、剣として研鑽してきたのだ。」つまり、「風鳴の道具」として生きるようにした、ということだ。務めを果たす。それこそが、父親に受け入れられるための道なのだと。翼は、寂しさの中に自嘲気味な感情を内包させる。「なのに、この体たらくでは、ますますもって鬼子と疎まれてしまうな。」

 余談ではあるが、騙されて譲位をさせられた後の崇徳も、鳥羽と、自分が退位させられる原因となった美福門院(近衛天皇の母)と流鏑馬を見るために同席するなど、ある意味「受け入れられるための努力」をしているようにも感じられる。

 前回の記事で、崇徳院は、鳥羽院ではなく白河院の子であるとする説を紹介した。繰り返しになるが、白河院の子が堀河天皇堀河天皇の子が鳥羽院、そして鳥羽院の子が崇徳院である。シンフォギアでは、翼の父は八紘ということになっているが、実は訃堂の子である、という話が語られるのである。訃堂は八紘(訃堂から見れば息子)の妻を孕ませ、その結果生まれたのが翼。

 親子関係を表すと、崇徳の場合は白河―堀河―鳥羽―崇徳であり、シンフォギアの場合は訃堂―八紘―翼であるため、崇徳院の方が間に介在する人物が一人多い。白河法皇の場合、孫の妻にした女性を孕ませた。仮に、崇徳が白河法皇と待賢門院璋子の子であるとする説を採用するならば、それは「性愛」の結果でしかなかっただろう。一方で、シンフォギアでは「自身(訃堂)の血を濃くするため」という明確な理由がある。翼の母については詳しく語られず、登場もせず名前もわからない。既に病気か何かで亡くなっているのだろうか。

 しかし、やや疑問に思われる方もいるかもしれない。八紘は訃堂の嫡男、実子ではないか。それで「血の濃さ」を求めたというのはどういうことか、と。私もこの点はよく分からなかった。説明がなされていないからだ。強いて理由を考えるならば、八紘の妻は風鳴家の親戚であったということか。一方、訃堂との間に八紘・弦十郎をもうけた女性は、そうではなかった。ゆえに、「同じ一族で契ることが血の濃さにつながる」ということで、八紘の妻(風鳴家の人間と仮定)と契ったのだろうか。この点、あくまで仮説であり、5期で今後明らかになるかもしれない。八紘が実は入り婿でその妻の方が訃堂の娘だとか、そういう説は介在しえないと思う。後で紹介する公式用語集の八紘の項目にも、「父・訃堂」と書かれている。

 血の濃さというものは確かに重要だ。例えば、近親婚。これを続けることより、偶にとんでもなく卓越した人が生まれることがある、という話を昔中世の教授から聞いたことがある。天皇家などがそれだ。

 もう一つ、仮説を立ててみよう。訃堂から見れば、八紘と弦十郎、どちらも「当主」と認めるに足る器ではなかった(個人的にはどちらも有能な人物だと思うが)。これではいかんと思った訃堂が、別の当主候補を欲した。そこで、自ら今度は八紘の妻に手を出したという説だ。これもまた仮説であるため、実際はどうか分からない。

 四期であるシンフォギアAXZの5話。八紘、弦十郎と共に、訃堂のもとへ状況報告に向かった翼。翼に対して訃堂は「まるで不肖の防人よ。風鳴の血が流れておりながら、嘆かわしい。」と言う。翼は、「我らを防人たらしめるは血にあらず、その心意気だと信じております。」と静かに応じた。ここからも、訃堂の「血」に対するこだわりが感じられるものである。

 話をアニメ本編の内容に戻そう。再びファラの襲撃。苦戦する翼とマリア。自分の無力さを痛感する翼。そこに現れたのが八紘。「翼!歌え、翼。」

 翼「ですが私では、風鳴の道具にも、剣にも…」

 八紘「ならなくていい!」

 翼「お父様…」

 八紘「夢を見続けることを恐れるな!」

 マリア「そうだ!翼の部屋、十年間そのまんまなんかじゃない!散らかっていても、塵一つなかった。お前との思い出をなくさないよう、そのままに保たれていたのがあの部屋だ!娘を疎んだ父親のすることではない。いい加減に気づけ、馬鹿娘!」

 翼「まさかお父様は、私が夢をわずかでも追いかけられるよう、風鳴の家より遠ざけてきた…それが、お父様の望みならば…私はもう一度、夢を見てもいいのですか!」

 うつむきながら、八紘は頷く。翼はここで初めて、八紘の思いを知る。翼の「夢」は、歌手として皆に歌を届けることだ。そして現在、翼はプロの歌手としての活動も行っている。翼は「幼い頃にはこの部屋で、お父様に流行歌を聞かせた思い出もある」と言っていた。当時から翼が歌手を目指していたということが分かる。翼のその夢を知った八紘は、あえて厳しいことを言い、家から翼を遠ざけていたのか。更に、散らかったままの翼の部屋。散らかったまま塵・埃だけを払っていたというのはなかなか器用だと思うが、あの部屋をそのままにすることこそが「親子」の結びつき、思い出を感じられる唯一の場所だと八紘は思っていたのだろう。

 そして翼は、「貴様はこれを剣と呼ぶのか、否!これは、夢に向かってはばたく翼!」と言い、ファラを撃破する。これが、シンフォギアGXの第9話だ。

 ここで、公式サイトの用語集を見てみよう。

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 「八紘もまた、穢れた風鳴の血の被害者である。娘の出生時に八紘は、憎悪にも似た複雑な感情をいだくが、それでも娘に「翼」と名付ける。人の道に外れてなお、国防を最優先と唱える父・訃堂への叛逆として、風鳴の因習に囚われない自由を意味する名前を娘に贈ったのは、不器用ながらも娘の幸せを願う父親としての想いからであった。」

 

 崇徳院の叔父子説は、事実かどうか確認できない。しかし、シンフォギアでは、この書き方であれば翼の実父は訃堂だというのは事実なのだろうか。八紘は、出生時既に翼の出生の秘密を知っていた。しかし、それに対する「叛逆」として、八紘は「翼」という名前を授けたのだ。翼に厳しくあたるようになったのは、自分の子ではないこんな汚れた娘を置いておきたくないという思いではなく、家から遠ざけること=家の因習にとらわれず、翼の夢を叶えられることに繋がる、という思いからであった。

 この点、崇徳と鳥羽とは対照的と言える。鳥羽は自分の死後に兵乱の起こることを警戒し、武士たちの招集を決めていたのだ。そこで、なぜ崇徳が嫌いかという理由を「崇徳が自分の子ではないから」という点に結びつける。これが叔父子説を利用した読み解きだ。叔父子説が事実かどうかは別であるが。

 鳥羽と崇徳の不和の理由としては、前の記事に書いた「皇太弟」事件が挙げられる。『保元物語』では、叔父子説をにおわせる記述はないとも書いた。では、物語では、二人の不和の原因をなんと書いているか。物語の語り手は、「先帝コトナル御ツヽガモ渡ラセ給ハヌニ、ヲシオロシ奉ラセ給フコソ浅増ケレ。カヽリケレバ、御恨ノミ残ケルニヤ、一院新院父子ノ御仲、不快ト聞コエシ。」と言っている。前の記事で取り上げた、崇徳の近衛天皇への譲位を受けての記述だ。「先帝」及び「新院」は崇徳。「一院」は鳥羽である。

 また、物語内で崇徳は「当腹ノ寵愛ト云計ニテ、近衛院ニ位ヲ押シ取レ」と述べている。自分が譲位させられたのは、やはり鳥羽が美福門院を寵愛しており、新しく近衛が生まれたことが理由である、思っていることがうかがえる。ここまでを素直に読めば、鳥羽院は寵姫である美福門院から近衛が生まれたことを喜び、即位を進めたと解釈できる。ここで叔父子説を踏まえれば、崇徳が実子ではないと確信した鳥羽が、彼を排除するために急いで近衛に譲位させたとする解釈も可能となる。やはりこの説を採用するかしないかで、読み解き方が大きく変わってくるのだ。少なくとも『保元物語』はこの説を採用していない。もし叔父子説を物語においても取り入れる(意識する)なら、待賢門院璋子についても当然触れる必要があろう。しかし、名前すら記されていない。物語では叔父子説に触れないため、既に故人である璋子(1145年没)はなおさら登場させる必要性がないのであろう。

 ただ、「政治工作説」を唱える美川圭氏は、叔父子説を鳥羽院が信じるのは、崇徳の譲位前ではなく譲位後であるとの説を示している点も留意されたい。

 余談であるが、この後、シンフォギアGXの最終話(13話)では、戦いを終えた翼とマリアが、歌手活動の拠点であるロンドンへと飛行機で飛び立っていく。飛行場の側で、弦十郎は「見送りもまともにできないなんて、父親失格じゃないのか」と兄である八紘に聞き、八紘は「私たちはこれで十分だ。」と応じる。そこまで来ているなら会ってやれという思いである。とことん不器用な人なのだ。

 さて、最後に話を整理しよう。前回の記事の内容を踏まえ、人物を当てはめていく。訃堂=白河法皇、八紘=鳥羽院、翼=崇徳院。叔父子という呼称=汚れた風鳴の道具。シンフォギアの設定を当てはめて示すと、「白河法皇は存命中に鳥羽院を後継にせずに、実は自分の子である崇徳院を後継指名した」という話にでもなろうか。なお、史実では、白河法皇は21歳の鳥羽を退位させ、5歳の崇徳を即位させるということをしている。

 歴史にもしもはないと我々は知っているが、もしも、鳥羽が崇徳を実子ではないと知っていた(またはそういった流言を信じていた)うえで、それでも八紘のように崇徳を思いやる気持ちを持っていたら…保元の乱は起きなかったのではないだろうか。政治性、権力の絡む話である以上、それは難しいか。

 シンフォギアGXでは、翼の他にも響、クリス、キャロルの親子がそれぞれ描かれる。この作品のイントロダクションには、「これは、コワレタモノを修復する物語」と書かれている。最終話のラストも、主人公である響の父と家族の和解が描かれて終わる。娘を捨てた親、娘を残して死んでしまった親。その人たちが、娘たちに対して思うこと、伝えたいことは何か。そして、娘たちが忘れていたこと、誤解していたこととは。「コワレタモノ」とは「親子の絆」という解釈ができるかもしれない。

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 ちなみに、『保元物語』では、鳥羽・崇徳父子の和解のようなものが描かれている。物語では、崇徳は鳥羽が崩御すると、喪が明けぬうちから挙兵の準備を始める。そして挙兵に至るが、敗北。崇徳は讃岐国へ配流となることが決まった。この時代の配流について、元木泰雄氏は、『保元・平治の乱』の中で、次のように述べている。

 「この時代の配流には、奈良時代までとは異なる意味も付加された。平安京は恒久的な王権の所在地であると同時にケガレからも隔離された清浄の地であった。京から畿外、七道にいたるにつれて、夷狄、化外の地に近づくことになる。京を離れることは当時の皇族・貴族には忌避すべきことであり、(中略)その京を王権の中心であった人物が放逐される。これ以上の屈辱などあろうはずがない」

 

 崇徳は、都を離れる前、次のように申し出る。「故鳥羽院のお墓に参って、最後の暇乞いを申したい。」しかし、それは認められなかった。そのため御車を鳥羽院の墓のある安楽寿院の方へ向けさせ、「御涙二咽バセ」なさったという。これには崇徳を護送する役の重成も、涙で袖を濡らしたという。崇徳は全てを失った。そして最後の心残りは、父の墓参りなのであった。『保元物語』は、鳥羽を聖人・その治世を聖代として描きたいという作者の意図がある。しかし、それでもここにあるのは、親子の情というものである。

 

 

 

 

崇徳院と戦姫絶唱シンフォギアの風鳴翼―前編:崇徳院の父親について史料・先行研究から考える

 今回はタイトルの通りである。つい先日、NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』という番組で、崇徳院が取り上げられていた。これを読んでおられる方も、番組を見ていなくともこの人物の「怨霊」にまつわる話を聞いたことがあるかもしれない。

 私の大学時代後半の研究テーマは崇徳院であった。このブログのタイトルである「憂きまど」も崇徳院の和歌から取っている。もとの歌は「憂事ノマドロム程ハ忘ラレテ醒レバ夢ノ心地コソスレ」。日下力氏の訳を拝借すれば、「つらいことは、まどろむ間はわすれられて 目覚めてみれば夢を見ていたような心地がする」(『保元物語KADOKAWAより)というものだ。崇徳院歌人としての業績もある。皆さんの中にも、『百人一首』77番歌である「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ」の歌を知っている人がいるだろう。これも、崇徳院の歌である。

 そんな私が、『戦姫絶唱シンフォギアGX』を見ていた当時。九話「夢の途中」という回。三期にして明かされた、メインキャラクター風鳴翼の出生の秘密。これは崇徳院に似ている、とすぐに思い至った。この回については、公式サイトにあらすじが載っているので、そちらをご覧いただきたい。この記事の前編では、まず崇徳院の出生について様々な文献から考察する。昔色々と書いたものの再編版だ。後編では風鳴翼の話をし、その共通点と相違点などについても考察していく。

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 最初に、崇徳院について簡単に説明しておこう。崇徳院は第75代天皇。1119年に生まれ、1164年に崩御した。そもそもこの「崇徳」という呼称は、死後の「諡(おくりな)」である。父親は鳥羽院、母親は待賢門院(藤原)璋子。崇徳院の次に即位する近衛天皇は異母弟、その次に即位し、源頼朝から「日本一の大天狗」と評された後白河法皇は同母弟にあたる。「院」は譲位して上皇となった人物に対して用いられる呼称。そして、「法皇」は出家して仏門に入った上皇・院に対して用いられる呼称である。

 崇徳は、父親である鳥羽から遠ざけられていた。それが1156年の保元の乱を引き起こし、讃岐国へ配流となってしまう遠因となる。なぜ崇徳は鳥羽から遠ざけられていたのか。それは、崇徳の本当の父が鳥羽ではないから、という説がある。これがいわゆる「叔父子説」である。では一体、崇徳は誰の子なのか。崇徳の「父親」が鳥羽、その父親は堀河天皇、そしてその父親が白河院である。この白河院白河法皇)と待賢門院璋子が契って生まれた子が崇徳であるというのである。このことが記されている史料が、鎌倉時代に公卿の源顕兼によって書かれた説話集古事談巻第二「白河院、養女璋子に通ずる事、鳥羽院崇徳院確執の事」である。該当箇所を引用してみよう。

 

 「待賢門院【大納言公実女、母左中弁隆方女】は、白河院御猶子の儀にて入内せしめ給ふ。その間、法皇密通せしめ給ふ。人皆な之れを知るか。崇徳院白河院の御胤子、と云々。鳥羽院も其の由を知し食して、「叔父子」とぞ申さしめ給ひける」(『新日本古典文学大系 41 古事談 続古事談』より)

 

 待賢門院は白河法皇と密通しており、それで生まれたのが崇徳である。鳥羽もそれを知っており、崇徳を「叔父子」と呼んでいたという。

 さて、これに関して、研究者の意見はどうだろうか。美川圭氏は次のように述べている。

 

 「近世の『大日本史』や『読史余論』以来、多くの歴史家たちが、この「叔父子」説を肯定的にみてきた。『古事談』という真偽のさだかでない「説話」を多く含んだ書にしか存在しない話が、あまり疑われなかった理由は、少なくとも保元の乱前夜において、鳥羽院崇徳院との不和が事実であり、それが鳥羽院没後、同母兄弟である崇徳と後白河の正面衝突という事態につながったことを説明するのに、「叔父子」説を真実とする方が、より説得力があるからである」(美川圭『院政』より)

 

 『古事談』は今でいうゴシップ的な内容も含んでいるので、扱いには注意が必要だ。

 他に、角田文衞氏は、関白・藤原忠実の日記『殿暦』の記述や、『今鏡』の白河法皇と幼い頃の璋子の逸話なども紹介した上で、璋子の生理周期を算定し、「鳥羽天皇は、九月(元永元年九月)には殆ど接触がなかった(璋子と、執筆者補足)ことから、中宮(璋子、執筆者補足)が法皇によって懐妊した事実を悟られたに相違ないのである」と述べている(角田文衞『待賢門院璋子の生涯』より)。研究のために生理周期まで調べるのか、と思い当時は驚いたものだ。今どきはどうかしている声豚が、若い女性声優の生理周期を調べるということをやっていたのを記事で見かけた。しかし、璋子の生理周期を調べることは、この問題を研究するうえで意義のあることなのだろう。ちなみに、この角田氏の本をもとにした小説が、『失楽園』で知られる渡辺淳一氏の『天上紅蓮』である。

 

 もう一方の『殿暦』の記述もみてみよう。白河法皇が璋子を忠実の子である藤原忠通と婚姻させようとしたが、忠実が反対したため立ち消えとなった一件の後の話として記されているものである。白河法皇は、その代わりに孫の鳥羽に璋子を入内させることにした。それに関して、忠実は永久五年十月十一日に「件院姫君備後守季通盜通之云、世間人皆所知也」―「璋子が備後守季通と密通していることは、世間の人々は皆知っていることだ」と記していることや、同年十二月四日条にも、「乱行人入内」と記すなど、璋子がふしだらな女性であることを批判している(『大日本古記錄 殿暦五』岩波書店より)。角田氏は、この点について「璋子の素行に対する忠実の酷評は、右の関係(白河法皇と璋子の性的な関係、執筆者補足)が意外に早かったことを暗示して」おり、義父である白河法皇と関係を持ちながらも季通などと通じていたのであれば、忠実のこういった表現を用いた批判、決めつけも「止むをえなかったであろう」と述べている。季通は璋子の音楽の師匠。そこから性的関係に発展したと考える人もいる。

 そしてもう一方の『今鏡』の逸話の内容は、幼い頃の璋子が白河法皇の懐に足を入れて昼も寝ていたため、忠実が訪ねて来ても対面を断っていた。その寵愛ぶりは「大人になり給ひても類ひなくきこえ侍りき」であったというものである(海野泰男『今鏡全釈 上』より)。先述の角田氏はこれについて、「法皇が孫のように璋子を可愛がった心情は理解できるにしても、そこにはなにかしら異常なものがなかったとはいえない。」と述べている。璋子は五歳の頃、白河法皇の寵姫である祇園女御の養女となっていたため、二人の接点が生まれたのであった。ちなみに白河法皇は1053年生まれ。璋子は1101年生まれ。歳の差、単純計算で48歳。すごい。

 

 元木泰雄氏は「むろん今日、真相を知る術はない。」とした上で、以下のように述べている。

  

 「大治四年(一一二九)の白河没後、すぐに崇徳を退位させなかったこと、崇徳の皇子重仁が有力な皇位継承の候補者であったことから、鳥羽院の崇徳出生に対する疑惑が当初から強いものではなかったとする説が有力である。しかし、科学的に血縁関係を実証できない当時、噂を広められることは相当な根拠の存在を意味し、重大な影響を有した。」(元木泰雄『保元・平治の乱』より)

 

 他に、先述の美川氏は、これは美福門院得子(近衛天皇の母)と藤原忠通による崇徳を失脚させ自分たちが権力を握るための政治工作であったとする説を提示している。いずれにしても、DNA鑑定などがこの時代は存在していないため、真実を知ることはできない。本当に崇徳の父親が鳥羽だったのかもしれないし、白河法皇の子だったのかもしれない。結論としては「信頼できる新史料でも出てこない限り、確かめられない」ということだ。

 しかし、美川氏が述べていた通り、「少なくとも保元の乱前夜において、鳥羽院崇徳院との不和」は「事実」ではあるのだ。ここで、慈円の『愚管抄』に記されている、崇徳の躰仁親王(後の近衛天皇)への譲位の経緯を見てみる。『愚管抄』では、崇徳が譲位する際、本来の約束とは異なり、「ソノ宣命皇太子トゾアランズラントヲボシメシケルヲ、皇太弟(ト)カヽセレケル」状態であったことに対して、「コハイカニ」と崇徳の反応を載せている(『愚管抄岩波書店より)。こうした逸話は『今鏡』にも見られる。異母弟の近衛を「皇太子」にすれば、崇徳は鳥羽の死後に近衛の父として院政を行うことができたが、「皇太弟」ではそれは不可能である。この記述を信用するならば、鳥羽が「お前は譲位するが、皇太子と書いておくから、お前は院政ができる」と言っていたのに、実際はそう書いていなかったということだ。つまり、崇徳は鳥羽に騙されて退位させられたということになる。それは崇徳が怒るのも当然というものだ。元木氏は、「院政を行うことができる上皇は、天皇直系尊属に限定されており、まだ二三歳の崇徳が譲位に応じたのも、将来の院政を約束されていたからにほかならない。」と指摘している。その後、崇徳は息子の重仁親王を即位させることで院政をしようと考えるのだが、それもまた阻まれる。追い詰められた崇徳は、藤原頼長らと結びつき、最後は挙兵に至るのである。

 他に、先述の『古事談』から、鳥羽の臨終間際の話を引用してみよう。

 

 「鳥羽院最後にも、惟方時に廷尉佐を召して、『汝許りぞと思ひて仰せらるるなり。閉眼の後、あな賢こ、新院にみすな』と仰せ事ありけり。案の如く新院は「見奉らむ」と仰せられけれど、『御遺言の旨候ふ』とて、懸け廻らして入れ奉らず、と云々」

 

 崇徳は鳥羽の臨終間際に訪問してきたが、鳥羽が遺言を残した。簡単に言えば崇徳を入れるな、ということだ。結局、崇徳は鳥羽の姿を見ることが叶わなかった。繰り返しになるが、『古事談』は扱いに注意が必要であることは留意されたい。

 軍記物語(フィクション)である『保元物語』では、鳥羽が亡くなる以前から、人々の間では「一院カクレサセ給ナバ、主上ト新院トノ御中心ヨクモマシマサズ。世ハタヾハアラジ」という話がなされていたことを、物語は記す(『新日本古典文学大系 43 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店より)。「一院」は鳥羽、「主上」は現在の天皇である後白河、「新院」は崇徳である。鳥羽が崩御したなら、崇徳と後白河は関係がよくないので、世の中は乱れるだろうという趣旨だ。実際、崇徳は挙兵へと突き進んでいく。日下力氏は、「実際は、鳥羽院が自分の死後、事の起こるのを警戒し、早くから義朝や清盛らを招集、崇徳院側は追い込まれてやむなく決起した側面が強く、準備不足は明らかであった」と述べている(『いくさ物語の世界』岩波書店より)。ここでの「実際」とは「文学的(フィクション)ではなく歴史上」という意味である。武士の招集は、もし崇徳らが決起した場合には彼らを退け、後白河を守るためであろう。結果的に、それが崇徳側への圧力となってしまう。これは私の憶測にすぎないが、鳥羽の真の目的は、日本を治める者として、後白河と崇徳で国が二つに分裂することを防ぐことにあったのではないだろうか。ちなみに、『保元物語』では、崇徳の父が白河法皇であることをにおわせる記述は一切存在しない。

 非常に長くなった。これでもだいぶ省略しているのである。結局のところ、崇徳の父が白河法皇である説を取るかとらないかで、読み解き方が変わってくるのだ。この説を採用するのであれば、鳥羽が崇徳を遠ざけたのはそれが理由だということである。個人的には、美川氏の言うような「政治工作」=鳥羽の子ではないという流言に鳥羽がはめられ、崇徳を遠ざけることになったという読み解きをしたいところだが。鳥羽はあるとき、疱瘡になった崇徳院を見舞ったことがある。それに対して、佐藤健治氏は「親として崇徳院を思いやる、鳥羽院の気持ちが現れていると言えよう」と考え、元木泰雄氏は「表面上は家長として鷹揚な態度で接している」と指摘している。さて、どちらだろう。後者を取るなら悲しい親子関係と言える。前者ならば、「早く治せよ」という思いと一緒にこれまでの仕打ちを「後ろめたい」と思ってたりしたのか。内心の問題なので、真相は分からない。

 後編では、シンフォギアの翼の話と絡めていきたい。今回のものよりもなるべく短くまとめたいが、そうはいかないようだ。

 

待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))

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院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

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天上紅蓮 (文春文庫)

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