憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士だった人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。絵を描けない私は文を書く。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037

崇徳院と戦姫絶唱シンフォギアの風鳴翼―前編:崇徳院の父親について史料・先行研究から考える

 今回はタイトルの通りである。つい先日、NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』という番組で、崇徳院が取り上げられていた。これを読んでおられる方も、番組を見ていなくともこの人物の「怨霊」にまつわる話を聞いたことがあるかもしれない。

 私の大学時代後半の研究テーマは崇徳院であった。このブログのタイトルである「憂き事のまどろむ程は忘られて」も崇徳院の和歌から取っている。もとの歌は「憂事ノマドロム程ハ忘ラレテ醒レバ夢ノ心地コソスレ」。日下力氏の訳を拝借すれば、「つらいことは、まどろむ間はわすれられて 目覚めてみれば夢を見ていたような心地がする」(『保元物語KADOKAWAより)というものだ。崇徳院歌人としての業績もある。皆さんの中にも、『百人一首』77番歌である「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ」の歌を知っている人がいるだろう。これも、崇徳院の歌である。

 そんな私が、『戦姫絶唱シンフォギアGX』を見ていた当時。九話「夢の途中」という回。三期にして明かされた、メインキャラクター風鳴翼の出生の秘密。これは崇徳院に似ている、とすぐに思い至った。この回については、公式サイトにあらすじが載っているので、そちらをご覧いただきたい。この記事の前編では、まず崇徳院の出生について様々な文献から考察する。昔色々と書いたものの再編版だ。後編では風鳴翼の話をし、その共通点と相違点などについても考察していく。

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 最初に、崇徳院について簡単に説明しておこう。崇徳院は第75代天皇。1119年に生まれ、1164年に崩御した。そもそもこの「崇徳」という呼称は、死後の「諡(おくりな)」である。父親は鳥羽院、母親は待賢門院(藤原)璋子。崇徳院の次に即位する近衛天皇は異母弟、その次に即位し、源頼朝から「日本一の大天狗」と評された後白河法皇は同母弟にあたる。「院」は譲位して上皇となった人物に対して用いられる呼称。そして、「法皇」は出家して仏門に入った上皇・院に対して用いられる呼称である。

 崇徳は、父親である鳥羽から遠ざけられていた。それが1156年の保元の乱を引き起こし、讃岐国へ配流となってしまう遠因となる。なぜ崇徳は鳥羽から遠ざけられていたのか。それは、崇徳の本当の父が鳥羽ではないから、という説がある。これがいわゆる「叔父子説」である。では一体、崇徳は誰の子なのか。崇徳の「父親」が鳥羽、その父親は堀河天皇、そしてその父親が白河院である。この白河院白河法皇)と待賢門院璋子が契って生まれた子が崇徳であるというのである。このことが記されている史料が、鎌倉時代に公卿の源顕兼によって書かれた説話集古事談巻第二「白河院、養女璋子に通ずる事、鳥羽院崇徳院確執の事」である。該当箇所を引用してみよう。

 

 「待賢門院【大納言公実女、母左中弁隆方女】は、白河院御猶子の儀にて入内せしめ給ふ。その間、法皇密通せしめ給ふ。人皆な之れを知るか。崇徳院白河院の御胤子、と云々。鳥羽院も其の由を知し食して、「叔父子」とぞ申さしめ給ひける」(『新日本古典文学大系 41 古事談 続古事談』より)

 

 待賢門院は白河法皇と密通しており、それで生まれたのが崇徳である。鳥羽もそれを知っており、崇徳を「叔父子」と呼んでいたという。

 さて、これに関して、研究者の意見はどうだろうか。美川圭氏は次のように述べている。

 

 「近世の『大日本史』や『読史余論』以来、多くの歴史家たちが、この「叔父子」説を肯定的にみてきた。『古事談』という真偽のさだかでない「説話」を多く含んだ書にしか存在しない話が、あまり疑われなかった理由は、少なくとも保元の乱前夜において、鳥羽院崇徳院との不和が事実であり、それが鳥羽院没後、同母兄弟である崇徳と後白河の正面衝突という事態につながったことを説明するのに、「叔父子」説を真実とする方が、より説得力があるからである」(美川圭『院政』より)

 

 『古事談』は今でいうゴシップ的な内容も含んでいるので、扱いには注意が必要だ。

 他に、角田文衞氏は、関白・藤原忠実の日記『殿暦』の記述や、『今鏡』の白河法皇と幼い頃の璋子の逸話なども紹介した上で、璋子の生理周期を算定し、「鳥羽天皇は、九月(元永元年九月)には殆ど接触がなかった(璋子と、執筆者補足)ことから、中宮(璋子、執筆者補足)が法皇によって懐妊した事実を悟られたに相違ないのである」と述べている(角田文衞『待賢門院璋子の生涯』より)。研究のために生理周期まで調べるのか、と思い当時は驚いたものだ。今どきはどうかしている声豚が、若い女性声優の生理周期を調べるということをやっていたのを記事で見かけた。しかし、璋子の生理周期を調べることは、この問題を研究するうえで意義のあることなのだろう。ちなみに、この角田氏の本をもとにした小説が、『失楽園』で知られる渡辺淳一氏の『天上紅蓮』である。

 

 もう一方の『殿暦』の記述もみてみよう。白河法皇が璋子を忠実の子である藤原忠通と婚姻させようとしたが、忠実が反対したため立ち消えとなった一件の後の話として記されているものである。白河法皇は、その代わりに孫の鳥羽に璋子を入内させることにした。それに関して、忠実は永久五年十月十一日に「件院姫君備後守季通盜通之云、世間人皆所知也」―「璋子が備後守季通と密通していることは、世間の人々は皆知っていることだ」と記していることや、同年十二月四日条にも、「乱行人入内」と記すなど、璋子がふしだらな女性であることを批判している(『大日本古記錄 殿暦五』岩波書店より)。角田氏は、この点について「璋子の素行に対する忠実の酷評は、右の関係(白河法皇と璋子の性的な関係、執筆者補足)が意外に早かったことを暗示して」おり、義父である白河法皇と関係を持ちながらも季通などと通じていたのであれば、忠実のこういった表現を用いた批判、決めつけも「止むをえなかったであろう」と述べている。季通は璋子の音楽の師匠。そこから性的関係に発展したと考える人もいる。

 そしてもう一方の『今鏡』の逸話の内容は、幼い頃の璋子が白河法皇の懐に足を入れて昼も寝ていたため、忠実が訪ねて来ても対面を断っていた。その寵愛ぶりは「大人になり給ひても類ひなくきこえ侍りき」であったというものである(海野泰男『今鏡全釈 上』より)。先述の角田氏はこれについて、「法皇が孫のように璋子を可愛がった心情は理解できるにしても、そこにはなにかしら異常なものがなかったとはいえない。」と述べている。璋子は五歳の頃、白河法皇の寵姫である祇園女御の養女となっていたため、二人の接点が生まれたのであった。ちなみに白河法皇は1053年生まれ。璋子は1101年生まれ。歳の差、単純計算で48歳。すごい。

 

 元木泰雄氏は「むろん今日、真相を知る術はない。」とした上で、以下のように述べている。

  

 「大治四年(一一二九)の白河没後、すぐに崇徳を退位させなかったこと、崇徳の皇子重仁が有力な皇位継承の候補者であったことから、鳥羽院の崇徳出生に対する疑惑が当初から強いものではなかったとする説が有力である。しかし、科学的に血縁関係を実証できない当時、噂を広められることは相当な根拠の存在を意味し、重大な影響を有した。」(元木泰雄『保元・平治の乱』より)

 

 他に、先述の美川氏は、これは美福門院得子(近衛天皇の母)と藤原忠通による崇徳を失脚させ自分たちが権力を握るための政治工作であったとする説を提示している。いずれにしても、DNA鑑定などがこの時代は存在していないため、真実を知ることはできない。本当に崇徳の父親が鳥羽だったのかもしれないし、白河法皇の子だったのかもしれない。結論としては「信頼できる新史料でも出てこない限り、確かめられない」ということだ。

 しかし、美川氏が述べていた通り、「少なくとも保元の乱前夜において、鳥羽院崇徳院との不和」は「事実」ではあるのだ。ここで、慈円の『愚管抄』に記されている、崇徳の躰仁親王(後の近衛天皇)への譲位の経緯を見てみる。『愚管抄』では、崇徳が譲位する際、本来の約束とは異なり、「ソノ宣命皇太子トゾアランズラントヲボシメシケルヲ、皇太弟(ト)カヽセレケル」状態であったことに対して、「コハイカニ」と崇徳の反応を載せている(『愚管抄岩波書店より)。こうした逸話は『今鏡』にも見られる。異母弟の近衛を「皇太子」にすれば、崇徳は鳥羽の死後に近衛の父として院政を行うことができたが、「皇太弟」ではそれは不可能である。この記述を信用するならば、鳥羽が「お前は譲位するが、皇太子と書いておくから、お前は院政ができる」と言っていたのに、実際はそう書いていなかったということだ。つまり、崇徳は鳥羽に騙されて退位させられたということになる。それは崇徳が怒るのも当然というものだ。元木氏は、「院政を行うことができる上皇は、天皇直系尊属に限定されており、まだ二三歳の崇徳が譲位に応じたのも、将来の院政を約束されていたからにほかならない。」と指摘している。その後、崇徳は息子の重仁親王を即位させることで院政をしようと考えるのだが、それもまた阻まれる。追い詰められた崇徳は、藤原頼長らと結びつき、最後は挙兵に至るのである。

 他に、先述の『古事談』から、鳥羽の臨終間際の話を引用してみよう。

 

 「鳥羽院最後にも、惟方時に廷尉佐を召して、『汝許りぞと思ひて仰せらるるなり。閉眼の後、あな賢こ、新院にみすな』と仰せ事ありけり。案の如く新院は「見奉らむ」と仰せられけれど、『御遺言の旨候ふ』とて、懸け廻らして入れ奉らず、と云々」

 

 崇徳は鳥羽の臨終間際に訪問してきたが、鳥羽が遺言を残した。簡単に言えば崇徳を入れるな、ということだ。結局、崇徳は鳥羽の姿を見ることが叶わなかった。繰り返しになるが、『古事談』は扱いに注意が必要であることは留意されたい。

 軍記物語(フィクション)である『保元物語』では、鳥羽が亡くなる以前から、人々の間では「一院カクレサセ給ナバ、主上ト新院トノ御中心ヨクモマシマサズ。世ハタヾハアラジ」という話がなされていたことを、物語は記す(『新日本古典文学大系 43 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店より)。「一院」は鳥羽、「主上」は現在の天皇である後白河、「新院」は崇徳である。鳥羽が崩御したなら、崇徳と後白河は関係がよくないので、世の中は乱れるだろうという趣旨だ。実際、崇徳は挙兵へと突き進んでいく。日下力氏は、「実際は、鳥羽院が自分の死後、事の起こるのを警戒し、早くから義朝や清盛らを招集、崇徳院側は追い込まれてやむなく決起した側面が強く、準備不足は明らかであった」と述べている(『いくさ物語の世界』岩波書店より)。ここでの「実際」とは「文学的(フィクション)ではなく歴史上」という意味である。武士の招集は、もし崇徳らが決起した場合には彼らを退け、後白河を守るためであろう。結果的に、それが崇徳側への圧力となってしまう。これは私の憶測にすぎないが、鳥羽の真の目的は、日本を治める者として、後白河と崇徳で国が二つに分裂することを防ぐことにあったのではないだろうか。ちなみに、『保元物語』では、崇徳の父が白河法皇であることをにおわせる記述は一切存在しない。

 非常に長くなった。これでもだいぶ省略しているのである。結局のところ、崇徳の父が白河法皇である説を取るかとらないかで、読み解き方が変わってくるのだ。この説を採用するのであれば、鳥羽が崇徳を遠ざけたのはそれが理由だということである。個人的には、美川氏の言うような「政治工作」=鳥羽の子ではないという流言に鳥羽がはめられ、崇徳を遠ざけることになったという読み解きをしたいところだが。鳥羽はあるとき、疱瘡になった崇徳院を見舞ったことがある。それに対して、佐藤健治氏は「親として崇徳院を思いやる、鳥羽院の気持ちが現れていると言えよう」と考え、元木泰雄氏は「表面上は家長として鷹揚な態度で接している」と指摘している。さて、どちらだろう。後者を取るなら悲しい親子関係と言える。前者ならば、「早く治せよ」という思いと一緒にこれまでの仕打ちを「後ろめたい」と思ってたりしたのか。内心の問題なので、真相は分からない。

 後編では、シンフォギアの翼の話と絡めていきたい。今回のものよりもなるべく短くまとめたいが、そうはいかないようだ。

 

待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))

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院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

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天上紅蓮 (文春文庫)

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