憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士の人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

終わりゆく今期アニメ作品と視聴アニメの選定方法~出演声優採用など~

 はやいもので、今年に入ってから始まったアニメ作品たちが軒並み12話、13話となった。つい先日はクソアニメこと『ポプテピピック』が最終回を迎えた。ここまでTwitter(ネット)全体で大盛り上がりした作品はなかなかない。個人的には『星色ガールドロップ』が見たかったのだが、こちらは二期が決定したというしこれは期待せざるを得ない。

 自分の見ているものの中では、これから『りゅうおうのおしごと!』、そして明日は「よりもい」こと『宇宙よりも遠い場所』が最終回を迎える。この二作の声優ラジオを聴いていても、ラジオも次回ないしあと二回で最終回です、という話をしていた。こうしてアニメが終わる度に、視聴者たちは、「二期がいつかあったらいいな」などと淡い期待を抱いたりする。そして、今後のグッズ展開や、出演声優陣のイベント(その作品の放送が終わって暫くしてから開催されることが多く、円盤に優先販売申し込み券が封入されるというパターンがほとんどである)が楽しみだ、と思っていたりするものである。

 個人的に、来期は『信長の忍び姉川・石山篇~』があり、2クールあるため来期も続く『バジリスク 桜花忍法帖』は視聴するつもりである。偶然だが、両作品ともに忍者ものであり、主人公の女の子の声優が水瀬いのりさんである(しかもどちらも伊賀の忍者)。

 さて、今期に限らず、我が国では毎期膨大な数のアニメ作品が放送されている。仕事をしていない、大学生である、といった人は別だが、全ての作品を見ることは非常に難しい。作品の数、すなわち選択肢が多いことはいいことかもしれないが、逆に選ぶのを難しくさせているという面もあるかもしれない。ゆえに、我々はある程度視聴する作品を絞る必要がある。もし放送終了後にその作品が気になった場合は、レンタルを利用するなり円盤を買うなりすればよい。

 では、いかにして視聴する作品を決めていくか。私の選定方法は、三種類ある。まず、以前自分が視聴していた作品の二期。これは当然視聴したくなるだろう。私の場合は『信長の忍び』や『干物妹!うまるちゃんR』などがそれだ。以前見ている作品であるため、キャラクターの名前なども覚えている。すなわち、全く新しい作品を見る際のように、作品情報や事前知識などを仕入れる必要もない。

 そして、二つ目は、単純に自分が興味がある作品や、原作を読んでいてそれがアニメ化されたという作品を見る。今期の場合は『りゅうおうのおしごと!』や『ポプテピピック』がそれだ。『りゅうおうのおしごと!』は将棋を題材にした作品であり、以前から興味を持っていた。『ポプテピピック』も同様である。「原作を読んでいてそれがアニメ化されたという作品」は、やや先ほどの話と重複するが、やはりキャラクターの名前や展開を知っているため、事前知識が不要で作品に入っていきやすい。原作ではこうだけどアニメではカットされた、オリジナル要素が加わっている、などといった点からの視聴方法も可能だろう。

 そして、最後の一つがタイトルにもある「出演声優採用」である。声豚諸氏はやったことがある人が多いと思う。新作アニメは、キービジュアルなどの他に、事前に主な声優陣が先行公開となる。それを見て「好きな○○さんが出ている」ということで視聴を決定する、というものだ。別の例であれば、「あのドラマ・映画に○○さんという自分が好きな俳優・女優がメインの役どころで出ているから見てみよう」というのと同じだ。

 私の場合、水瀬いのりさんの出演作品を見ることが増えている。例えば今期では「よりもい」がそうだし、その前の『少女終末旅行』もそうだ。思えば、今では特にはまっている『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズも、いのりさんではないが出演声優採用で視聴を始めた作品であった。まさかここまで続くコンテンツになるとは思っていなかった(一期は初見の際は色々となんだこれは、という感じだった)。これもめぐりあわせである。出演声優採用をすることで、その声優個人のラジオ番組などで、作品の話が出た際に「ああなるほど、あの回はよかったな」などと思うこともできる。実写特番なども楽しく見ることができる。

 更に、別のメリットもある。自分が絶対に見ないような作品を、そこから知るきっかけになる、ということだ。例えば『徒然チルドレン』。高校生の男女の様々な恋の在り方を描いた漫画作品だが、やはりいのりさんが出ていなければ、見なかったに違いない。「歴史もの」など、個々の視聴者の好きなジャンルというものはバラバラである。ゆえに、その枠から大きく外れたものを視聴するという考えにはなかなか至らない。その時間で何か別の好きなことをした方がいい、という考えになったりもする。しかし、出演声優採用では「まず見てみようじゃないか」ということになる。そして、実際見てみたら面白い、感動した、という感想になる。続いて、原作を買い求めたりもする。最初は声優目当てで見始めたが、それまで自分が全く知らなかったor知ることがなかった、面白い作品に出会えるのである。案外悪くないものだ。むしろプラスである。

 

 今日はこのくらいにしておこう。来期も私は出演声優採用をするつもりでいる。どんな作品に出会えるか楽しみだ。しかし、あまりに多くの作品を見るのは逆に負担が増えて苦になるし、少ないとちょっと寂しい、という気持ちになる。時間は限られている。何事もほどほどに自分が楽しめる範囲で、が一番である。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』こと「さよ朝」のスタッフ座談会本から再考するレイリアとメドメル

 さて、今回はさよ朝考察の補足である。前回の感想、考察に関しては、以下の記事を参照していただきたい。 

konamijin.hatenablog.com

 

 前回の記事でも言及した、「スタッフ座談会本」を読んだ。本とはいっても、数ページの小冊子である。監督・脚本を担当した岡田磨里さんたちが、制作現場の話などを自由に語り合っている。今回は、これをもとに自分が思ったことなどを書いていく。

 その中に、レイリアとメドメルの最後の場面に言及されている部分がある。メドメルの姿を見たレイリアは、なぜ飛んだのか(この辺りの概要は、前回の記事で詳細に書いているので参照していただきたい)。

 私は、「きっと作者は答えを持っている。そうでないと、なぜあえてああいった描写をしたのかという意味が不明確となる。」と書いた。この場合、「作者」は脚本の岡田さんということになろう。座談会の中で、堀川憲司さん(プロデューサー)、平松禎史さん(コア・ディレクター)のあの場面に関する意見を聞いていた監督の岡田麿里さんは、こう述べている。

 

どうしよう。私なりの答えはあるんだけれど、ここでは言わない方がいいのか(笑)。

 

 やはり、岡田さんは自分なりの答えを持っているのである。その答えは、座談会の中では語られていない。一方で、岡田さんは、こうも述べている。

 

普通であれば、一つのシーンでここまでそれぞれの受け取り方が違うって、アニメ作品としては問題だと思うんです(笑)。でも、枠にとらわれずに描いてみたかった感情を描いたら、こうなってしまって。」

 

 なるほど。「受け取り方」、すなわち答えは観た人それぞれが抱いたものでいいということだろうか。あまりにも突拍子もない解釈は「違う」だろうが。岡田さんの「答え」が、いつか語られる日が来るのだろうか。

 

堀川さんの解釈

 では、最初に先述の堀川さんの意見を見てみたい。堀川さんは、レイリアは塔に登ってきた時点で、最初から飛び降りて死のうと覚悟を決めていたと考える。そして娘(メドメル)を見て「会えた」と納得した後で駆け出した(自殺しようとした)としている。しかし、なぜ会えたことに納得してそのまま死のうと思ったのか(マキアの乗るレナトが拾い上げに来ることは知らないという解釈)、そしてマキアの乗るレナトに救われた後に、なぜ「娘を切り捨てて、自分は新たな道を行くという」感情になったかが、「まだ分からない」と述べている。

 ここで私の意見を述べたい。前回の記事で、レイリアがメドメルのいる塔にたどり着いた点について、「彷徨い歩いた末の偶然か、あの後イゾルがメドメルの居所を知っていて、教えたのか」という解釈(想像)を提示した。なるほど、堀川さんの言うように最初から死ぬために訪れたという考えは私にはなかった。死ぬつもりであるなら、戦死した兵士たちの剣でも拾って自らを刺せばいいのではないか。レイリアは、腹の赤ん坊を尖った髪飾りで刺す素振りをみせたことがあったし、そういった死に方ができないというわけでもなさそうだ。それに、かつての恋人・クリムの誘いを断ってまで、彼女は娘に会うことに執着した。そんな彼女が、娘の顔を見る前に死のうとするだろうか。メタなことを言えば、あそこでレイリアとメドメルが最後にめぐり合うのは展開の都合上必要な場面ではあるのだろう。やはり、レイリアはメドメルが王宮のどこに住んでいるかを知っていた、もしくはイゾルに教えてもらった。それで、あの塔に行けばもしかしたら会えるかもしれない、という最後のかすかな希望を持ってあの場所に向かったのではないか。メドメルは王族であるため、本来であれば国王と皇子とともに退避していてもおかしくないのである。しかし、メドメルはどうするかと問う兵士に対して、父親である皇子・ヘイゼルは「ええい、あの忌まわしい化け物(レイリア)の子など捨て置け」と言った。ヘイゼルに、父親としての娘を思う気持ちが少しでも残っていれば、メドメルはあの塔にはいなかったはずである。レイリアが最初から娘の顔を観たら飛び降りて死のうと思っていたのか、会えなくても飛び降りようと思っていたのか、までは分からない。

 しかし、レイリアは、あれで本当に「納得」して死のうと思ったのだろうか。これ以前の時期に、レイリアは「(メドメルの)匂いも抱き上げた時の柔らかさも忘れかけてる」と狂気に取りつかれたような表情を見せた。それならば、最後にせっかく会えたのだから、成長した娘を抱きしめてあげればいいではないか。それこそが「匂い」を感じるための方法だ。マキアとエリアルの場合、マキアはエリアルの匂いを「お日様の匂い」と表現し、少し成長してもやっぱり変わってない、と言う場面がある。レイリアも、メドメルを一度抱きしめてあげれば、その匂いから、成長してもやっぱり自分の娘だ、と感じることができたのではないか。それとも、レイリアのあのセリフからまた時が経っているため、彼女は完全に娘の匂いを忘れてしまった。ゆえに、娘の匂いを感じるという行動をする(抱きしめる)ことはしなかったのか。

 

平松さんの解釈

 平松さんは、「あそこはマキアの声が聞こえてきて、背中を押されるかたちで駆け出す(※レイリアが、執筆者補足)演出」になっていると指摘している。すなわち、レイリアは今の自分を全てを捨て、再びマキアと一緒にイオルフの民として生きようとして飛んだのだと。確かに、「私は飛べる」と、活力のようなものも感じさせる声と演出にも見える。

 一方で、先述の堀川さんは、マキアに助けられたレイリアの表情が「キョトンとしてる」という点や、レイリアの声が「マキア?」と疑問形になっているという点に着目し、レイリアはマキアが助けに来ることを知らなかったと考える。だから自殺なのだと。確かに、レイリアの反応に関しては、私も堀川さんと同じ印象を受けた。その声から、レイリアは意外そうな反応をしているように思う。

 レイリアの「飛ぶ」という行為は、物語の序盤で川の流れに向かって崖から飛んで笑っていた、怖がって飛べないマキアに「弱虫」と言っていた、かつてのレイリアの姿を思い起こさせる。そして、メザーテに捕らわれた後、彼女は竜のレナトに対して「あなたは翼があるのにどうして飛んで行かないの。弱虫」というようなセリフを言っていた。レイリアにとって「飛ぶ」という行為は、「自由」の象徴だと言うことができるのではないか

 最後の場面に話を戻そう。レイリアは、自分はイオルフの民で云々、という話をした後に飛ぶ。彼女は再び自由を取り戻す=かつての生活に戻る、という意図で飛んだとも考えられる(平松説)。一方で、昔を思い出すと共に、ここで全てを終わらせて自由になろうという意図で飛んだ(堀川説)とも考えられる。どちらにも解釈が可能なのだ。

 少し話題を変える。他に、平松さんはレイリアのメドメルに対する「私のことは忘れて。私も忘れる」というセリフを、メドメルがしっかり聞いているように描くかどうかで迷う、と述べている。そのうえで、メドメルが母のレイリアについて「お綺麗な方なのね」と言う点に注目し、「忘れて」と聞こえているのに(親子の縁を切られたのに)そう言うか?という点を不思議に思っている。

 レイリアは、レナトの上から大声で叫ぶように「忘れて」と言っているので、恐らくメドメルにも内容は聞こえていると思う。前回の考察でも述べたが、メドメルは「母親」というものがどういったものか、漠然とは知っている。しかし、実際にその人(レイリア)に触れた、愛情を感じたことがほとんどないので、母親ってどんなものなんだろう、という本質が分からないのではないか。今回めぐり会うまで、母親の顔も知らなかった(レイリアの姿を見たメドメルが、開口一番に「誰?」と言っている)。ゆえに、「自分を生んでくれて、大切に思っていてくれた人」ということはなんとなく伝わった。しかし、母の愛というものを知らない彼女は「名残惜しい」という感情にはならなかったのではないか。最後に会えてよかった。ただ、一緒にはいられなかったというこれまでと同じ状況に戻るだけなのだ、と思ったのではないか。まだ小学生くらいに見える子供がここまで考えられるかは疑問ではあるが。

 

石井さんの解釈

 最後は石井百合子さん(キャラクターデザイン・総作画監督)の意見である。石井さんは、レイリアとメドメルの邂逅について、以下のように述べている。

 

「あそこでメドメルと出会った時は「終わった」という顔を描いたんですよ。自分の娘を見て自分と大して変わらない子が立っていたら「終わった」ってなるじゃないですか(笑)。」

 

 レイリアは不老であるため、姿が変わらない。しかし、メドメルは同じ特質を宿していなかったため、成長する。レイリアは赤ん坊の頃の彼女の姿しか知らない。前回考察したように、「私はメドメルに会えなくて母親として何もできなかったし、彼女ももう母親というものを必要としていないんじゃないか」という思いになった、ということだろうか。

 

 以上、少ない情報の中から、色々と膨らませて考えてみた。岡田監督の言うように、同じ場面であっても本当に観る人によって解釈が変わってくる作品である。本作を観た方は、あの場面を自分はどう感じただろう、とぼんやり考えてみて欲しい。

創作物における色々な正義のありかた~仮面ライダー1号と藤岡弘、すかすか、11eyesの十字軍、シンフォギア楽曲~

 昨日、「さよ朝」の感想をまとめるためだけにブログを立ち上げた。Twitterで伏字のアプリ?を使って書こうとしたが、いちいち伏字の機能などを使用すると、見る側が面倒だと思ったからだ。ワンクリックするだけの作業でも、面倒と感じる人はいるものだ。

 しかしながら、普段の日常はTwitterに書けば十分に足りるし、特にネタもないし休眠させておこうかと思った。だが、ふと思いついたことがあったのでまとめてみたい。前回の記事でもバイエラ国が、メザーテ国に攻め込むための「大義」を欲していた、といったような話をした。創作の世界のみならず、現実世界でも、例えば首相の解散を批判する野党が「この(衆院)解散には大義がない!」といった批判をしていたのを記憶している方もおられることだろう。

 そして、「正義」という言葉もある。正義と聞けば、仮面ライダーウルトラマンなどの「正義の味方」であるヒーローを思い浮かべる人もいれば、孫正義を思い浮かべる人もいるかもしれない、というのは冗談であるが。

 「正義」とはなんだろう。創作物には、「正義」の様々なありかたがある。今回はそれらを広く浅く取り上げていき、「正義」について思いを馳せてみたい。個人的趣味が丸出しだがその点はご容赦願いたい。なるべく浅く広く取り上げたつもりだ。「それはちょっと違うでしょ」と思ってもらってもかまわない。

 

仮面ライダー1号・本郷猛と藤岡弘

 さて、最初に触れたように、「正義」と言えばヒーロー、ヒーローと言えばウルトラマン仮面ライダーである。地球を侵略しに来る怪獣・宇宙人。世界征服を企むショッカー。なるほど、それらの悪と命をかけて戦うヒーローたちは、確かに「正義」に違いない。ではここで、仮面ライダー1号のOPにて流れるナレーションを紹介しよう。

 

仮面ライダー本郷猛は改造人間である。 彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。 仮面ライダーは人間の自由のために、ショッカーと闘うのだ!」

 

 いかがだろうか。ショッカーは確かに「世界制覇を企む悪の秘密結社」であると明言されている。一方で、仮面ライダーが戦う理由はどう書かれているか。そう、「人間の自由のため」なのである。「正義」を示すためだとか、そういった理由ではない。

 こうした点を理解するには、本郷猛を演じた藤岡弘、さんの著書・『仮面ライダー本郷猛の真実』が役に立つ。藤岡さんはまず、本郷がライダーになった経緯に触れる。一話にて、本郷はある日突然ショッカーに襲われ、改造手術を受ける。本郷は脳改造をされる前に、緑川博士によって助けられ、超人的力を持った仮面ライダーとなる。あのまま助け出されなければ、本郷はショッカーのために働く怪人になっていたはずなのである。ゆえに、藤岡さんは「ということは、倒す相手(怪人、執筆者注)は同じ仲間。仲間を倒して嬉しいはずがないんです。」と述べている。

 更に藤岡さんは、脳改造されたショッカーの怪人について、機械のように働かされ、全く人間として扱われていないと述べたうえで、「本郷猛が戦う動機や怒り」はそこに向けられていると説く。そういった人間をもう生み出さないために、仮面ライダーはショッカーを壊滅させようとするというわけだ。

 ただ一方で、藤岡さんはこの本の中で「ショッカーは主義主張を持って戦っている。その主義に命をかける姿勢は、私は理解できるんですよ。」とも述べている。この「主義主張」とは、ショッカーにとっての「正義」だろう。では、藤岡さんの言う「ショッカーの主義主張」とは何か。某クソアニメでおなじみの出版社から出ている、『仮面ライダー怪人列伝 1号・2号・V3編』から引用してみよう。

 

「ショッカーの理想とする社会とは、地球上の全人類が改造人間となって個人の主義主張を失い、首領の意のままに操られるというもの」

 

 これがショッカーの「主義主張」だ。全人類が脳改造を受ければ反発する者などもいなくなるのだから、例えるならば、それは完全に洗脳が完了した独裁国家のようなものなのかもしれない。仮面ライダーは、「正義」をふりかざしているのではない。藤岡さんの言うように、こうした人を生み出さないために戦っているというだけなのだ。それが結果的に、人類にとっての「正義」のために戦っている、ということになろう。

 

仮面ライダー 本郷猛の真実 (ぶんか社文庫)

仮面ライダー 本郷猛の真実 (ぶんか社文庫)

 

 

仮面ライダー怪人列伝 1号・2号・V3編 (竹書房文庫)

仮面ライダー怪人列伝 1号・2号・V3編 (竹書房文庫)

 

②『終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』の場合

 昨日も少し言及した作品、略称『すかすか』である。作中で、ヴィレムという青年が、「正義」について述べている。この章のタイトルは、ずばり『誰も彼もが、正義の名のもとに』である。

 ヴィレムは、市長の娘からある依頼を受ける。市長である父が今度演説をするが、その内容を快く思わない勢力が襲撃に来る恐れがある。助けてくれないか、と。しかし、ヴィレムはそれは軍=自分の役割ではない、と断る。その時の市長の娘のセリフとヴィレムの返答は、以下のとおりである。

 

「そんな……正義は明らかに、こちらにあるのですよ?人の世を害する悪を誅することに、なぜ制約が課されねばならないのですか?」

 

「正義は、暴力を振るっていい理由にならねえからだ。」

「武力を振るう理由を正当化するために掲げられるのが正義だ。相手を殴りたい本当の理由は必ず別にある。必ずだ。奪いたいから。貶めたいから。侮りたいから。気に食わないから。消したいから。ストレス解消したいから。あるいはそいつらの組み合わせ」

「しかしそれを認めたくはない。どうせなら、後ろめたい気持ちなどなく、気持ちよく全力で相手をブン殴りたい。自分や味方を騙すため、正義という名の旗を担ぎ出す。どいつもこいつも無自覚のままそれをやるから、本気で正義を信じる者同士が互いを全力でブン殴って戦争が起きる。」

終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?2巻』より

 

 「正義」とはそんなに綺麗で立派なものじゃないですよ、と言っているのだ。例えば子供同士が喧嘩し、一方がもう一方を叩いて泣かせたならば、殴った側は「うしろめたい」気持ちになるだろう。しかし、「正義」の名のもとに振るう暴力は正当化され、「自分は正しいことをしている」という気持ちになり、罪悪感もなくなるのだ。個人同士の喧嘩を超えて、国同士の喧嘩=戦争、になると多くの人が苦しむ。そして、戦争を始める理由、「正義」がなければ、それはただの侵略行為にしかならない。蛮族同士が、互いに食料などあらゆるものを奪い取り取る、という目的で勢力争いをするというなら「正義」など必要ない。しかし、昨日言及したバイエラ国などのように、ある程度成熟した国同士の戦争となると、「正義」や「大義(名分)」が必要になるということである。そしてヴィレム曰く、「どいつもこいつも無自覚のままそれをやる」のである。「自分や味方を騙すため」に持ち出している、作り出している「正義」だが、誰も「騙されている」とは気づいていないのだ。それは、人間にとって非常に危うく恐ろしい精神状態であるように思える。

 

 

11eyes -Resona Forma-における十字軍と宗教

 先日、Twitterの方で、この作品のとあるシナリオの描写について再考したくて画像を貼り付けるなどして色々つぶやいていた。最初に断っておくが、これはアダルトゲームだ。はじめにこのシナリオを簡単に説明しようと思ったが、Amazonの商品説明が分かりやすかったのでそれをそのまま貼る。

 

 11eyes if ストーリー 不死の魔女 “リーゼロッテ・ヴェルクマイスター”。彼女がただ一人愛し焦がれた男は、約550年前に共に戦ったドラスベニアの国王であったヴェラード。 そのヴェラードが、未来を見る力を持つ魔具 『劫(アイオン)の眼』 を使い、リーゼロッテがまだ魔女となっていない、非業の運命を辿る以前の無垢な少女 “リゼット・ヴェルトール” の頃の時代へタイムワープし、リゼットを魔女にさせないために戦いに身を投じる物語。

 

 「ヴェラード」はヴラド三世がモデルの人物。リーゼロッテ(リゼット)は「異端」と認定され、アルビジョア十字軍によって蹂躙されたキリスト教異端の「カタリ派」の少女だった。彼女は捕えられ、性暴力を受ける。それこそが、彼女が魔女になった原因である。「リゼットを魔女にさせない」ために、タイムワープしたヴェラード。彼は命を燃やし、アルビジョア十字軍を、自らの剣技や様々なチート召喚能力(古の英雄たち、キュロスや徒歩王など)を駆使して壊滅させる。このようなシナリオだ。

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 前置きが長くなったが本題に入ろう。作中に登場する十字軍騎士は、砦に籠る人々に対し、こう呼びかける。

 

 「我らは教皇より遣わされし、十字架の御旗の下に集った信仰の軍なり!公会議にて禁じられた、異端の教えに救いを求むるは、なんたる堕落ぞ!」

 

 十字軍を「自分のことをウルトラマンだと勘違いしているバルタン星人」すなわち自分が侵略者なのに正義の味方だと思っている、と某先生が評したことがある。彼らにとっての「正義」は「信仰」であり、カトリックこそが「正義」で、教皇より遣わされた自分たちが「正義」で、他は異端であるという認識である。

 逆側から考えてみる。後世の語り手(実は生き延びたリゼット)は、敵(十字軍)についてこう語る。「清浄の教えと、偽りの教え」「偽の神より遣わされし、名ばかりの十字軍を率いる男」。「清浄の教え」には「カタリ」のルビ、「偽りの教え」には「カソリック」のルビがふられている。カタリ派の立場ならば、逆にカソリックこそが異端であるという考えである。互いの「正義」のぶつかり合いなのである。戦って(もしくは相手を無条件降伏させて)自分たちの信仰こそが正しいと証明する。勝った方が正義、という考えになっていく。某先生曰く、「異教徒は悪魔である(だから全員殺さねばならない)」から「異教徒でも殺さなくていい」という考えになり、ヨーロッパでの地獄の宗教戦争が終わるのは三十年戦争まで待たねばならなかったという。この辺りの経緯を語るのが目的ではないし、そもそも私より詳しい人が大勢いるだろうからこれ以上触れない。

 

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シンフォギア楽曲―立花響と藤岡弘、

 戦姫絶唱シンフォギアにおけるキャラクターソングは、作中での各キャラクターの思いはもちろん、作中で描き切れなかった心情なども歌詞に盛り込まれている。 つまり、その深層心理が色濃く反映されているということだ。いくつか取り上げてみよう。

 最初は『正義を信じて、握りしめて』である。歌うのは立花響(CV:悠木碧)。タイトルから、さぞ正義のすばらしさを高らかに歌い上げた楽曲と思われる方もいるかもしれない。しかし、歌詞はこうだ。

 

「ヒーローになんてなりたくない 想いを貫け…321 ゼロッ! そんなものがいらない 世界へと変える為にBurst it 届け」

 

 なんと、ヒーローにはなりたくないと言っているのである。これを読み解くには、やはり「ヒーロー」であった藤岡さんの考えが参考になる。

 

「悪によって成り立つのがヒーローなら、それも必要がない。(中略)いわゆる『正義』という心の状態が、普通の状態になれば、この世に正義という言葉がないはずです。悪という言葉もない。私は悪という言葉も、正義という言葉も辞書からなくなって欲しいんです。これが本当の意味での平和であり、自由であり、幸せだと思います。」

 

 立花響と藤岡弘、思いは同じであろう。響は、言葉が通じる相手であれば、どんな相手であろうとまず「話し合おう」と手を差しのべる。しかし、相手はそれを拒絶する。だから、今は目の前の敵と戦うが、永久に戦い続ける!というのではない。ヒーローも、「正義」「悪」という言葉もなくなるような世界にするために戦うのである。この点、「正義」という言葉の意味を考えるのではなく「なくす」=「常に心をその状態にする」という点で、これまでにはなかった見方である。

 「正義」という歌詞を含む立花響の曲には、他に『リトルミラクル-Grip it tight-の「正義を信じ 握りしめよう」という歌詞、そして『負けない愛が拳にある』において「私が選ぶ正義 固め掴んだ正義 離さないことここに誓う」という歌詞がみられるが、今回は触れない。

 

 

シンフォギア楽曲―立花響とサンジェルマン

  今回特に取り上げたいのは、『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』における響とサンジェルマン(CV:寿美菜子)の関係だ。簡単に概要を説明すると、サンジェルマンはパヴァリア光明結社(イルミナティが元ネタ)という組織に所属し、自分が過去に受けた苦しみから「人類を支配から開放する」という正義のために戦っている。イルミナティ陰謀論では、彼の組織は宗教や政府、愛国心、結婚制度などあらゆるものを破壊するという行動理念で動いているとされるので、その点を踏まえたものだろう。しかしそれは、他の誰か、いや多くの人を犠牲にするやり方になってしまう。サンジェルマンは、自身が蘇らせ、信頼しあっていた仲間のカリオストロとプレラーティ(二人とも元ネタとなった人物がいる)が、組織のリーダーである局長・アダムの野望のために使い捨てられていたことを知る。カリオストロとプレラーティの二人は、アダムではなくサンジェルマンのために戦っているんだ、と言っていたことがある。しかし、アダムの野望のために、自分たちが利用されていた。二人は死んだ。そしてサンジェルマンは、響と共闘するのである。

 そのシンフォギアAXZ10話で歌われるのが『花咲く勇気』だ。本来は響のソロ曲であり、作中でも響が一人で歌っている。しかし、シンフォギアライブ2018の二日目には、まさかのサンジェルマンとのデュエットが実現するサプライズがあった。悠木さんが偉い人にかけあったという。悠木さんと寿さんが仲がいいということもあるだろうし、悠木さんが作品、響に特に思い入れがあった(響に恩返しをしたいと言っていた)から、というのもあろう。

 問題としたいのはその歌詞である。一つずつ見ていこう。

 

「互いに握るもの 形の違う正義だけど(今はBrave)重ね合う時だ」

「支配され(噛み締めた)悔しさに(抗った) その心伝う気がしたんだ」

 

 響は、サンジェルマンの「支配され」「悔しい」という思いを理解してあげられている。この共闘以前、サンジェルマンと響は戦っている。その際、響はサンジェルマンに対し「やっぱり戦うしかないんですか!」と問い、サンジェルマンは「私とお前、互いが信じた正義を握りしめている以上、他に道などありはしない!」と応じる。やはりここも、既にみたカタリ派と十字軍のような、互いに相いれない正義同士のぶつかり合いなのである。ただ、宗教戦争では互いを「悪魔」であると思い、殺し合いをする。一方で、ここでのサンジェルマンは相手の信念を「正義」であると認めている。この点は大きな違いといえよう。それでも、争うことは避けられないという運命ではあるのだが。

 これ以降の歌詞も見ていこう。

 

「敵でも仇でも 何かのわけがあって決意を食い縛り ブっ込む(大義を)」

「運命の(歯車が) 少しだけ(ズレてたら) 友だった気がしたんだ…絶対」

「譲れない(譲れない)交差した手と手に他の出会いでならば…と咽ぶ」

 

 サンジェルマンにも「わけ」がある。そして、もしかしたら友として出会えたかもしれない。他の出会い方であったならばよかったのにと涙する。あくまで相手の思い、信念を尊重しつつ、「手を取り合いたい」のである。この点、序盤に触れた藤岡さんの考え方と共通する部分が一部あるように思う。もしかしたら、自分もショッカーの改造人間として世界征服のためにショッカーの手先になって働いていた側だったかもしれない。凶悪な怪人たちの仲間だったかもしれない。だから、怪人を倒しても嬉しいという気持ちにはならない。相手(いわゆる敵)のことを理解してあげられているからこそ、こうした思いになるというものである。

 物語の終盤、サンジェルマンには「取り合えるものか。(世界に)死を灯すことでしか明日を描けなかった私には」というセリフがある。響の思いは伝わった。自分のこれまでやってきたことを振り返ると、自分には響の手を取る資格などないという思いなのである。

 

 

 以上、今回も長くなった。私見であるが、やはり多くの近代国家や宗教の戦争というものは、サンジェルマンの言うように「互いが信じた正義を握りしめている以上、他に道などありはしない」という理由で引き起こされるものだと思う。その「正義」にはヴィレムの言うように中身が私利私欲のような汚いものの場合もあるだろうし、響たちのように熱い思いであるかもしれない。

 近々『さよ朝』の補足考察をした後は暫く更新しない…と思うが、また何かあった際には読んでいただけると嬉しい。藤井六段風に言えば、望外の僥倖である。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』こと「さよ朝」の長いネタバレ感想的なもの

 『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観た。先月末ごろから公開されている作品だが、やや遅めの鑑賞となった。TwitterのRTなどで流れている情報を見て、茅野愛衣さんの演技がちょっとすごいということで興味がわいた。公式サイトでキャストを見てみると、他にも沢城みゆきさんなど、シンフォギアシリーズで馴染みのある人たちが多く出演している。ネギまでおなじみ佐藤利奈さんなどもいる。これは声豚としてもぜひ見ねばならない。

 全部ではなく個人的に気になる部分、流れを様々にコメントを交えて語っていく。ネタバレも大いにあるがお付き合い願いたい。

 そもそも自分はファンタジー作品に何となく苦手意識を感じていた。決して嫌いなわけではないが、世界観に入り込めない、人物のカタカナの名前が覚えられないのではないかという思いから自然と避けていた。しかし、去年観た『終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』はいかにもラノベ的タイトルのファンタジーだがとても面白かったし感動した。原作も買うようになり、ファンタジー作品に対する苦手意識も多少は薄れたように思える。

 前置きが長くなった。一回目の鑑賞時は最初こそ「全員金髪で同じような服装をしていて見分けがつくのだろうか」という思いなどがあった。しかしだんだんとストーリーや人物を把握できるようになっていき、戦闘場面とディタの出産の場面とが交互に映る場面にハラハラし、泣きそうになる場面もあったがどうにかこらえた。一回目、二回目ともに涙をぬぐっている他の観客が見えた。

 二回目は特に個々の声優の演技と細かいセリフに注目した。マキアがミドに髪を染めてもらう場面(息子ということにしているエリアルと同じ色でなければ変だと思われるからだろう)なども確認できた。最初はただ洗ってもらっているだけだろうと思っていたのであった。そして何より、二回目の鑑賞はレイリアとメドメルの最後の場面をもう一度見たかったという思いがあった。全体のストーリーなどは公式サイトをみてもらいたいが、「母と子」が大きなテーマと言える。

<マキアとエリアルと不老>

 エリアルは賊に襲われた村の名も知れぬ母親が抱きかかえていた赤ん坊であり、マキアは本当の母親ではない。しかし、「母親としての自覚」を求められたりして、母親として振舞おうと頑張っていく。マキアも両親がおらず、一人ぼっちであると感じていた。なぜ他のイオルフの民の仲間たちには親がいて、彼女にはいないのかは謎である。

 彼女の一族は不老。序盤にミドの家で暮らしていた時期、高齢の飼い犬が死んでしまい、夜にみんなで埋葬をするという場面がある。そこではラングの弟(名前を忘れてしまった)が「母ちゃん(ミド)もいつか死ぬのか?」といったような質問をなげかける。漠然と、自分も、家族も、いつか死んでしまう、死ってなんなんだろう、ということを子供の頃に考え、眠れなくなったという人もいるだろう。ラングの弟もその点を考えるきっかけになったに違いない。マキアとエリアル、当然ただの人間であるエリアルの方が先に死ぬ。マキアはそのことを思い涙するのだが、それは不老ゆえの悲しみのようなものだ。子が親より先に死ぬのは不幸だと昔現実世界で誰かから聞いた記憶があるが、作中ではそれが定めなのである。「別れの一族」とは、人間と交わると必ず人間の方に先に別れが訪れてしまう、ということなのか否か。

 エリアルは最初は母に甘えていたが、だんだんと大人になるにつれて、マキアと一緒に寝なくなったり、マキアに対して「おい」「ちょっと」などといった呼び方をするようになったりしたということが語られる。思春期特有のアレである。そして酒を大量に飲まされ泥酔して帰ってきたエリアルは「いつまでも子ども扱いしやがって」「あなた(マキア)のこと、母親だと思ってないから」と言ったりしてしまう。個人的にこれはさすがに言ってはいかんだろう、という思い。別の日、大人になったかつての兄貴分・ラングに対して「どうしてあの人がこんなに自分のことを大切にしてくれるのか分からない」と涙する場面があったが、ここは特に印象に残っている。本当の母ではないのにどうしてそこまでしてくれるのか、というニュアンスも含まれているだろう。エリアルの心の葛藤、そして親が子を思う気持ち。二人の親子の結末などは多くの人が考察しているだろうから、あとはそちらに譲りたい。この辺り、子供を育てた経験のある母親が観たらどういう感想になるのか非常に興味がある。マキアの気持ちが一番わかるのは、きっとそういう人たち。

<メザーテ国とバイエラ国、戦闘描写>

 さて、私は歴史や政治ネタが大好きなので王国などの設定に色々と注目してしまった。大砲を積んだ木造の軍船や甲冑の騎兵、銃剣などが出てきているので、装備としてはそこまで新しくはない。中世ヨーロッパのようなものだ。メザーテの国王はいかにも無能そうだ。しかし、悪政を敷いているわけではないようで、演説の際は多くの国民が歓声を上げていたし、国民の生活水準も決して低くなさそうだ。メザーテは「レナト」と呼ばれる古より伝わりし伝説のドラゴンを複数飼っているため、その影響で周辺国よりも優越している。逆に言えば、彼らの権威を保っているものはそれしかない(だって王様無能そうだし)。そのレナトが赤目病という暴走状態になって最後は死んでしまう病気(どういう経緯で発症するのかは語られないので予想するしかない)で数が減っていく。それはイコール国の優越を失う、ということだ。

 これはまずいということで、メザーテ国はマキアたちイオルフの民の村を襲い、女を皇子・ヘイゼルと婚約させて不死の血を入れ、新たな伝説を王室に迎え入れようとする、というのが今回の物語のそもそもの問題の発端だ。この皇子も結婚記念パレードの際にレナトに恐るおそる乗ったりしていていかにもおぼっちゃん、とても無能そうだし出番があまりない。大砲を製造している職人たちにも「あの皇子に軍の指揮がつとまると思うか?」などと言われる始末である。

 マキアと同じイオルフの民であるレイリアが子を産む役にさせられる。しかし生まれてきた娘(メドメル)は全くレイリアの特徴を宿していなかった。このあたりに関しては、後述する。

 レイリアの元恋人であったクリムは、終盤でメザーテ国から彼女を取り戻すべく、「バイエラ」という国を動かすことに成功する。他の二カ国と合わせて連合させ、メザーテに侵攻させるのである。一部の人たちが(自分も)大好きな連合軍である。メザーテはレナトの力で権威を保ってこられたが、それを失い今度はイオルフの民という別の伝説の力を利用し、権力を維持しようとしていた。「強大な力を持つ者は、その力によって身を亡ぼす」というメッセージ性があるように思う。イゾル(メザーテ側の偉い騎士)も言っていたが、いにしえの力(メザーテにとって権威・権力であったはずのもの)をメザーテが悪用しているという大義名分で、バイエラの連合軍は侵攻を開始する。自分たちの持つ力が、結果的に滅亡の原因を作ったのである。クリムがレイリア奪還のためにバイエラを利用したという側面もあるだろうし、逆にバイエラが「なんてひどい連中だ!許せない!」というような大義名分を欲していたという側面もあるだろう。両者の利害が一致したのだ。恐らくバイエラも侵攻のための「大義名分」が欲しかったに過ぎず、メザーテのレナトの数も減っているし…これまで自分たちに優越していた彼の国を亡ぼす好機、今度は俺たちの覇権だ!程度の考えだろう(バイエラの兵士たちの略奪の場面なども描かれていないため、もしかしたら本当に正義の軍だったのかもしれないが、作中で「バイエラの軍が峠を越えた」といったセリフがあったため、以前からメザーテとは対立関係だったのだろう)。この辺りがいかにもな国同士の主導権争い、といったところ。ちなみに、バイエラの国王のような人物はメザーテと比べてかなり有能そうな見た目をしていた。

 そして、バイエラ連合軍による攻撃が夕方から始まる。艦砲射撃、船からは銃剣を装備した兵士の上陸部隊、一方では地上部隊として騎兵隊がメザーテを目指して侵攻してくる。ただ憎きメザーテの都を火の海にしてやる、というような考えではなく、しっかり地上部隊を送り込んで占領してやるという意思を感じる。剣を抜き放ち、草原を駆けるバイエラの騎兵隊の進む先に、煙が立ち上るメザーテの王都が見えるという構図、これが実にかっこよかった。話は変わるが、「構図」という点でいえば、マキアが赤目病を発症して飛ぶレナトにヒビオルの布でしがみつきながら朝日に映えるという構図、あそこも非常に美しい。この二つは一度目に観た時から特に印象に残っている絵である。

 それにしても彼の国、宣戦布告なしでいきなり砲撃してきたのだろうか。メザーテの兵士たちも「えっ、敵がバイエラ以外の国からも来てるの!?」という反応であったし、恐らくしてないのだろう。あんなにドカドカ砲弾を撃ち込んで、メザーテの一般市民は大丈夫なのかという思い。逃げ惑う市民の姿などは描かれていない。しかし、ディタがその日も普通に生活していたので、ある種の退避命令のようなものも出されていなかったようだ。やはり突然の攻撃なのか。しかし、メザーテも大砲を多く鋳造させていたし、戦争準備はしていたように思える。メザーテ側は騎兵には銃撃で応戦し、結構倒しているように見えたが、結局突破されていく。これ以降の戦闘描写もかなり見ごたえ、躍動感があった。両軍死屍累々、といった印象を受けたが、メザーテが劣勢。武器の質などは特に差がないように見えるが、やはり一国と連合軍という兵力差の問題か。一方で、わずかな兵士を連れ、地下道を通ってどこかに行こうとする国王と皇子。頭を抱える国王。砲弾を避けるための壕かもしれないし、外に逃げる地下道かもしれない。偉そうだった大臣たちは真っ先に逃げ出したというし、この国本当にダメすぎるだろうという思いである。「メドメル様はいかがいたしましょう?」と問う兵士に対して皇子は「ええい、あの忌まわしい化け物(レイリア)の子など捨て置け」といったような表現を使う。レイリアは不老で外見も変化しない=化け物ということだろうが、とことん屑である。この国王と皇子がどうなったのかは最後まで語られていない。どこかに落ち延びたか、捕縛されたかは想像するしかない。観た人を「ざまあみろ」というすっきりした気持ちにさせたいなら、彼らが捕縛されるといった描写も必要だろうが、作者にそういった意図はなかったのだろう。

 メザーテの城の門の大橋が砲撃で降り、突撃するバイエラ軍と、待ち構えていたイゾル率いるメザーテ軍。大人になったエリアルもメザーテの兵士として戦う。はじめはマキアから離れるために一つの逃げ場所として兵士に志願した彼だが、いつしか同僚に仲間意識のようなものが芽生えるようになっており、自分で見つけた居場所を守りたいと答える。確かに彼は負傷兵を抱えて退避してきたりしており、そういった意識のもとで戦っているのは間違いない。しかし、このメザーテこそが全ての悲劇の発端なのだが…それを知らない彼はあくまで素直だ。日が昇った頃にはメザーテの首都が陥落し、歓声が聞こえてくる。そしてバイエラの兵士が、メザーテの旗を支えるロープを次々に切っていく場面がある。一晩で陥落してしまったということだ。現実世界では独裁国家にて、民衆が独裁者の銅像をひき倒したりする場面を見たことがある人も多いことだろう。それとは少し異なるが、似たようなものだ。まさにメザーテの「敗戦」を象徴する場面と言える。イゾルも縛られているのが見えたが、あの後どうなったのだろう。そのまま処刑されたのか、許されバイエラに仕えたのか。ここも想像に任されている。

<レイリアとメドメル親子、そして元恋人・クリム>

 ここは時系列順にあらすじも交えつつ追っていきたい。レイリアは、マキアの友人で同じくイオルフの民(不老)だ。天真爛漫といった印象の子で、クリムと仲がいい。クリムは「やれやれ」といった感じを出してはいるが、彼女に気があることは明白である。夜に二人で会って、レイリアの髪に紫の花をつけてあげたりしていた。あの花にはどういった意図があったのだろう。単なるプレゼントなのか。

 彼女はゾル率いるメザーテに捕らわれ、前述のとおり王室にその不老の血を入れる為ということで皇子・ヘイゼルの子を孕む。多くいるイオルフの民の中でなぜレイリアが選ばれたのかは不明である。長老なども本当にあの後お亡くなりになったのか。レイリアはレナトのいる場所に一人で行き、「なぜあなたは飛んでいけるのに行かないの、弱虫」といったセリフを呟く。序盤に彼女がマキアに対して「弱虫」と言ったことを思い起こさせる。そして、王が呼んでいるというイゾルに対し、「イオルフの塔を思い出すから」私はここにいると答える。まだかつての生活への思いが断ち切れないのである。

 そしてクリムは婚姻記念パレードを混乱させ、彼女の奪還を試みる。皇子の乗るレナトの脚を一刺し。颯爽と馬で助けに入るイゾル騎士、かっこいい(まず顔が有能そうである)。一方ではマキアが混乱に乗じて反対方向にいる着飾ったレイリアを救出。一人護衛の兵士が気づきそうだったが、誤ってぶつかったふりをして注意をそらしたのも同じイオルフの仲間だろう。現地に前日の夕方着いて、その翌日に決行というハイスピードだが、それまで綿密に計画をしてきたのだろう。

 さて、ここが一つの注目ポイントである。レイリアはマキアに対して、一緒には行けないと言う。そしてマキアの手を自分のお腹に持っていく。マキアは察する。イゾルたちの追っ手が迫る。レイリアはマキアを逃がし、腹に尖った髪飾りをあて、イゾルにこれ以上の追跡を断念させる。ここではまだ、レイリアに「母親としての愛情」のような感情はないのではないか。こんなことになってしまって、もうかつての恋人であるクリムに顔向けできないという思い。そして仲間の元にも戻れないという思い。腹の子を刺すそぶりを見せるという行動にあるのは、仲間(マキアたち)を守りたい(逃がしたい)、こうすれば手出しできないだろう、という思いだけだろう。よって、この時点ではまだお腹の中の子に対する愛情はまだ芽生えていないといえる。

 時が経ち、レイリアの娘・メドメルは小学生くらい?の姿になっていた。話し方や目などもどこかぼんやりとしていて、髪色なども母親に全く似ていない。母親の話を少ししようとするが、すぐに口をつぐむ。この点、漠然と母親のことを覚えているのか、手に持っていた本の物語の世界で母親というものを改めて知ったのか。彼女にイオルフの民に見られる身体的特徴がないと知った国王は困り、皇子もレイリアへの興味を失っているという。国王の「おお哀れなヘイゼル!他の女でもあてがってやれ!」というセリフ、無能そうな上に親バカまで加わってきた。このあたりの話を聞いているイゾル、何とも言えない表情。一方、装飾類を引きちぎり、「娘に会わせて!」と荒れるレイリア。この親子が会うことはなぜだか分からないが許されていないようだ。レイリアの匂いまで忘れかけてる、というセリフから、メドメルが幼い頃は会えていたようだが、今会えない理由は最後まで語られないのでここも想像に任されているのだろうか。私見だが、メドメルがある程度成長するまで、レイリアはイオルフ特有の身体的特徴が出るかどうか見守ることを許された。最初は娘(姫)の誕生を誰もが喜んでいた。しかし全くその特徴がなかった。あの母子、殺すわけにもいかないしどうしたものかと考えられた末に、ある種の懲罰として二人を分けて住ませている、といったところか。レイリアの「どれだけあなたたちは私から奪うの!」というセリフを受け止めるイゾル。イゾルはレイリアをさらってきた男であり、そのまま彼女に仕えている。あの婚姻パレード以降、密かにレイリアを助けるべく潜入してきたクリムらを、駆け付けたイゾルは斬り捨てたことがある。(クリムは逃げたが、レイリアは彼も死んだと思っている)マキア以外はみんな死んでしまい、いよいよ自分は一人ぼっちになってしまう。心を許せる相手は、もはや娘・メドメルとマキアだけなのである。ここのレイリアの狂気の演技は必見である。私としては、ある種の政略結婚のような形で不本意ながら生まれた子に対して、そこまで愛情を抱けるものだろうかと思った。しかし、それが母というものなのだろうという思いも同時に抱いたのである。

 そして終盤。先述の通り、クリムはバイエラを動かし、メザーテとの戦争状態を作り出す。そしてメザーテにマキアを連れて(別行動になるが)乗り込んでいく。王宮で一人歩くレイリアに対して、一緒に来るように言うクリムだが、レイリアはまだ娘に執着している。クリムはそれならもう終わらせようと松明を放り、何もかも焼こうとする。彼も正気でいられなくなったのである。レイリアに拒絶(とまではいかないかもしれないが)され、生きる意味がなくなったのだ。クリムはイゾルの銃撃を受ける。そして瀕死の状態でレナトのいる場所の近くまで行き着く(レナトを解き放って暴れさせたりするのかと思ったがそんなことはなかった)。そこでの最期のセリフが印象的である。「なぜレイリアもマキアも時を進めた…」自分(クリム)はあの楽しかった頃に戻りたい、レイリアを取り戻したいという思いだけで年月を過ごしてきた。だから、その間、エリアルを愛し、新しい生活を楽しんでいたマキアを恨めしいとも思う。そしてかつての恋人・レイリア。望まぬ子であったはずなのに、国も滅亡しそうなのになぜまだその子に執着するのか。理解できない。そうした感情から、最後のセリフにつながるものと考えられる。「何もかもリセットして、またみんなであそこで楽しく暮らせる(時を戻す)はずなのに、なんで君たち二人は時を進めたんだ」と。

 そして最後。自分もさまざまな考察を見ていたが、最も意見が分かれる場面である。スタッフの座談会本は読んでいないが、その中でも意見が分かれているらしい。これも見る側にゆだねられているのか。高い建物の屋上のような場所にいるメドメル。付き従うは中年の女性(乳母?)のみ。そこでメドメル、下に降りたらこれまで(王宮)とは違う生活だけど私は生きていける、といったような発言をする。これは飛び降りるという意味(『平家物語』の波の下にも都がございますのような)かとも思うし、投降して庶民として暮らすという意味ともとれる。子供で女性なので処刑は免れるだろうか。個人的には後者ととらえたい。そこにふらっと現れるレイリア。なぜ彼女がこの場所に現れたのかも不明である。彷徨い歩いた末の偶然か、あの後イゾルがメドメルの居所を知っていて、教えたのか。そしてレイリアの姿を見たメドメルは、「誰?」と言ってしまうのである。付き従う女性は「レイリア様…」と驚き、それによりメドメルも彼女こそが自分の母親であると知り驚く。その後、レイリアは自分はイオルフの民であるという趣旨のことを話し、「飛んで!」というマキアの声に導かれ、レイリアは城壁から飛び降りるがマキアの乗るレナトに救われ、「私のことは忘れて!」などとと言い、涙ぐみながらも飛び立っていく。このレイリアの突然飛ぶという行動、それこそが意見が分かれる部分である。マキアの声はレイリアの幻聴であり、マキアが飛ぶレイリアをたまたま見つけて救ったのか。そうであるならば、レイリアは娘の姿を見れたことに満足し、その生を終わらせようとしたのか。

 別の考えを提示してみよう。娘であるはずのメドメルから「誰?」と言われたレイリアは、「ああ、この子は私の娘で、私は母親で。それでも、この子にはこの子の時間が流れている。私は会えなくて母親として何もできなかったし、彼女ももう母親というものを必要としていないんじゃないか。」と感じたのではないか。そこで、「私はこれから昔のように飛び、自由に生きる。あなたと私の世界はもう交わらない。私がいなくてもあなたは大丈夫。あなたも私のことは忘れなさい。長い記憶の中で。」という思いになったのではないか。メドメルは最後、「お母さまって、お綺麗な方なのね」と言って終わる。「なにか綺麗なものを一目見れてよかった」というような印象を受ける。声からも、「なぜ行ってしまうの」というような悲しみは感じられない。ただそれが当然であるかのような声なのである。この点、絶妙だ。なぜなのか。メドメルは母親の愛情というものに触れてこなかったので、そもそも母親というものがなんなのか、はっきりとは分からなかった。でも、自分のことを思ってくれていたというのは伝わった、ということなのか。この辺りの場面はぜひ色んな人の様々な解釈を読んでみたいものである。後でスタッフ座談会本を読んでその点も踏まえて追記してみたい。きっと作者は答えを持っている。そうでないと、なぜあえてああいった描写をしたのかという意味が不明確となる。ありがちかもしれないが、メドメルを抱きしめて、これからは一緒にいよう(もしくは抱きしめてから別れる)という話にしてあげればいいじゃないということになる。

 敗戦し、縛られたイゾルは飛び立つレナトを見て、「レイリア様…」で、伝説は伝説のままに…といったようなセリフを呟いていた。彼はレイリアをああいった境遇にした張本人であり、それ以降彼女に仕えてきたため、表には決して出さないが色々と思うことがあるのだろう。最後まで「メザーテとレイリアに仕える騎士」としてあろうとした。それ以上でもそれ以下でもあるまい。それにしても、結局彼が指揮官としてどのくらい有能なのかはわからなかった。皇子を素早く助けた馬術の巧みさ、状況判断の能力に優れている、といった点は読み取れるように思うが。

<締めとおまけ>

 思ったより長くなってしまった。マキアとエリアル、レイリアとメドメルという二組の親子は対比関係にある。前者は赤ん坊の頃から生活を共にし、マキアは愛情を注いできた。ゆえに、「なぜあの人は自分をそんなに大切にしてくれるのか」と成長したエリアルが悩んだりする。後者は、ほとんど交わることがなかった。レイリアは愛情を注ぎたいが、政治的理由でそれが叶わない。同じ「親子」ではありながら、大きく異なるのである。セリフなどややあやふやな部分もあるがご容赦願いたい。以下おまけの感想。

・ディタ役の日笠陽子さんは結婚しているし、ミド役の佐藤利奈さんは結婚して出産もしている。どういう思いで収録したのか気になる。

・一回目に見た時は佐藤利奈さん、日笠陽子さんの声だと気付かなかった。自分の耳に馴染んでいた二人の声とは少し違っていたので。

・世界観や設定についてはもっと知りたかった。ディタとエリアルが再会して結ばれるまでの話なども見たかった。

・布(ヒビオル)を織ってそれで状況や気持ちなどを伝えられるという設定、文字の和歌とは違うが、それに似たものを感じた。

・エンドロールではそのまま眠りにつきたくなった。

・二回の鑑賞の中で、両方ともエンドロールの山中真紀子さんという方の名前が田中真紀子に見えてしまった。

 

 以上、長々と書いてきたが、どこか忘れられない作品の一つになった。まだ観ていないという方も、何かの機会に見ていただきたい。