憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士だった人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。絵を描けない私は文を書く。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

創作物における色々な正義のありかた~仮面ライダー1号と藤岡弘、すかすか、11eyesの十字軍、シンフォギア楽曲~

 昨日、「さよ朝」の感想をまとめるためだけにブログを立ち上げた。Twitterで伏字のアプリ?を使って書こうとしたが、いちいち伏字の機能などを使用すると、見る側が面倒だと思ったからだ。ワンクリックするだけの作業でも、面倒と感じる人はいるものだ。

 しかしながら、普段の日常はTwitterに書けば十分に足りるし、特にネタもないし休眠させておこうかと思った。だが、ふと思いついたことがあったのでまとめてみたい。前回の記事でもバイエラ国が、メザーテ国に攻め込むための「大義」を欲していた、といったような話をした。創作の世界のみならず、現実世界でも、例えば首相の解散を批判する野党が「この(衆院)解散には大義がない!」といった批判をしていたのを記憶している方もおられることだろう。

 そして、「正義」という言葉もある。正義と聞けば、仮面ライダーウルトラマンなどの「正義の味方」であるヒーローを思い浮かべる人もいれば、孫正義を思い浮かべる人もいるかもしれない、というのは冗談であるが。

 「正義」とはなんだろう。創作物には、「正義」の様々なありかたがある。今回はそれらを広く浅く取り上げていき、「正義」について思いを馳せてみたい。個人的趣味が丸出しだがその点はご容赦願いたい。なるべく浅く広く取り上げたつもりだ。「それはちょっと違うでしょ」と思ってもらってもかまわない。

 

仮面ライダー1号・本郷猛と藤岡弘

 さて、最初に触れたように、「正義」と言えばヒーロー、ヒーローと言えばウルトラマン仮面ライダーである。地球を侵略しに来る怪獣・宇宙人。世界征服を企むショッカー。なるほど、それらの悪と命をかけて戦うヒーローたちは、確かに「正義」に違いない。ではここで、仮面ライダー1号のOPにて流れるナレーションを紹介しよう。

 

仮面ライダー本郷猛は改造人間である。 彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。 仮面ライダーは人間の自由のために、ショッカーと闘うのだ!」

 

 いかがだろうか。ショッカーは確かに「世界制覇を企む悪の秘密結社」であると明言されている。一方で、仮面ライダーが戦う理由はどう書かれているか。そう、「人間の自由のため」なのである。「正義」を示すためだとか、そういった理由ではない。

 こうした点を理解するには、本郷猛を演じた藤岡弘、さんの著書・『仮面ライダー本郷猛の真実』が役に立つ。藤岡さんはまず、本郷がライダーになった経緯に触れる。一話にて、本郷はある日突然ショッカーに襲われ、改造手術を受ける。本郷は脳改造をされる前に、緑川博士によって助けられ、超人的力を持った仮面ライダーとなる。あのまま助け出されなければ、本郷はショッカーのために働く怪人になっていたはずなのである。ゆえに、藤岡さんは「ということは、倒す相手(怪人、執筆者注)は同じ仲間。仲間を倒して嬉しいはずがないんです。」と述べている。

 更に藤岡さんは、脳改造されたショッカーの怪人について、機械のように働かされ、全く人間として扱われていないと述べたうえで、「本郷猛が戦う動機や怒り」はそこに向けられていると説く。そういった人間をもう生み出さないために、仮面ライダーはショッカーを壊滅させようとするというわけだ。

 ただ一方で、藤岡さんはこの本の中で「ショッカーは主義主張を持って戦っている。その主義に命をかける姿勢は、私は理解できるんですよ。」とも述べている。この「主義主張」とは、ショッカーにとっての「正義」だろう。では、藤岡さんの言う「ショッカーの主義主張」とは何か。某クソアニメでおなじみの出版社から出ている、『仮面ライダー怪人列伝 1号・2号・V3編』から引用してみよう。

 

「ショッカーの理想とする社会とは、地球上の全人類が改造人間となって個人の主義主張を失い、首領の意のままに操られるというもの」

 

 これがショッカーの「主義主張」だ。全人類が脳改造を受ければ反発する者などもいなくなるのだから、例えるならば、それは完全に洗脳が完了した独裁国家のようなものなのかもしれない。仮面ライダーは、「正義」をふりかざしているのではない。藤岡さんの言うように、こうした人を生み出さないために戦っているというだけなのだ。それが結果的に、人類にとっての「正義」のために戦っている、ということになろう。

 

仮面ライダー 本郷猛の真実 (ぶんか社文庫)

仮面ライダー 本郷猛の真実 (ぶんか社文庫)

 

 

仮面ライダー怪人列伝 1号・2号・V3編 (竹書房文庫)

仮面ライダー怪人列伝 1号・2号・V3編 (竹書房文庫)

 

②『終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』の場合

 昨日も少し言及した作品、略称『すかすか』である。作中で、ヴィレムという青年が、「正義」について述べている。この章のタイトルは、ずばり『誰も彼もが、正義の名のもとに』である。

 ヴィレムは、市長の娘からある依頼を受ける。市長である父が今度演説をするが、その内容を快く思わない勢力が襲撃に来る恐れがある。助けてくれないか、と。しかし、ヴィレムはそれは軍=自分の役割ではない、と断る。その時の市長の娘のセリフとヴィレムの返答は、以下のとおりである。

 

「そんな……正義は明らかに、こちらにあるのですよ?人の世を害する悪を誅することに、なぜ制約が課されねばならないのですか?」

 

「正義は、暴力を振るっていい理由にならねえからだ。」

「武力を振るう理由を正当化するために掲げられるのが正義だ。相手を殴りたい本当の理由は必ず別にある。必ずだ。奪いたいから。貶めたいから。侮りたいから。気に食わないから。消したいから。ストレス解消したいから。あるいはそいつらの組み合わせ」

「しかしそれを認めたくはない。どうせなら、後ろめたい気持ちなどなく、気持ちよく全力で相手をブン殴りたい。自分や味方を騙すため、正義という名の旗を担ぎ出す。どいつもこいつも無自覚のままそれをやるから、本気で正義を信じる者同士が互いを全力でブン殴って戦争が起きる。」

終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?2巻』より

 

 「正義」とはそんなに綺麗で立派なものじゃないですよ、と言っているのだ。例えば子供同士が喧嘩し、一方がもう一方を叩いて泣かせたならば、殴った側は「うしろめたい」気持ちになるだろう。しかし、「正義」の名のもとに振るう暴力は正当化され、「自分は正しいことをしている」という気持ちになり、罪悪感もなくなるのだ。個人同士の喧嘩を超えて、国同士の喧嘩=戦争、になると多くの人が苦しむ。そして、戦争を始める理由、「正義」がなければ、それはただの侵略行為にしかならない。蛮族同士が、互いに食料などあらゆるものを奪い取り取る、という目的で勢力争いをするというなら「正義」など必要ない。しかし、昨日言及したバイエラ国などのように、ある程度成熟した国同士の戦争となると、「正義」や「大義(名分)」が必要になるということである。そしてヴィレム曰く、「どいつもこいつも無自覚のままそれをやる」のである。「自分や味方を騙すため」に持ち出している、作り出している「正義」だが、誰も「騙されている」とは気づいていないのだ。それは、人間にとって非常に危うく恐ろしい精神状態であるように思える。

 

 

11eyes -Resona Forma-における十字軍と宗教

 先日、Twitterの方で、この作品のとあるシナリオの描写について再考したくて画像を貼り付けるなどして色々つぶやいていた。最初に断っておくが、これはアダルトゲームだ。はじめにこのシナリオを簡単に説明しようと思ったが、Amazonの商品説明が分かりやすかったのでそれをそのまま貼る。

 

 11eyes if ストーリー 不死の魔女 “リーゼロッテ・ヴェルクマイスター”。彼女がただ一人愛し焦がれた男は、約550年前に共に戦ったドラスベニアの国王であったヴェラード。 そのヴェラードが、未来を見る力を持つ魔具 『劫(アイオン)の眼』 を使い、リーゼロッテがまだ魔女となっていない、非業の運命を辿る以前の無垢な少女 “リゼット・ヴェルトール” の頃の時代へタイムワープし、リゼットを魔女にさせないために戦いに身を投じる物語。

 

 「ヴェラード」はヴラド三世がモデルの人物。リーゼロッテ(リゼット)は「異端」と認定され、アルビジョア十字軍によって蹂躙されたキリスト教異端の「カタリ派」の少女だった。彼女は捕えられ、性暴力を受ける。それこそが、彼女が魔女になった原因である。「リゼットを魔女にさせない」ために、タイムワープしたヴェラード。彼は命を燃やし、アルビジョア十字軍を、自らの剣技や様々なチート召喚能力(古の英雄たち、キュロスや徒歩王など)を駆使して壊滅させる。このようなシナリオだ。

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 前置きが長くなったが本題に入ろう。作中に登場する十字軍騎士は、砦に籠る人々に対し、こう呼びかける。

 

 「我らは教皇より遣わされし、十字架の御旗の下に集った信仰の軍なり!公会議にて禁じられた、異端の教えに救いを求むるは、なんたる堕落ぞ!」

 

 十字軍を「自分のことをウルトラマンだと勘違いしているバルタン星人」すなわち自分が侵略者なのに正義の味方だと思っている、と某先生が評したことがある。彼らにとっての「正義」は「信仰」であり、カトリックこそが「正義」で、教皇より遣わされた自分たちが「正義」で、他は異端であるという認識である。

 逆側から考えてみる。後世の語り手(実は生き延びたリゼット)は、敵(十字軍)についてこう語る。「清浄の教えと、偽りの教え」「偽の神より遣わされし、名ばかりの十字軍を率いる男」。「清浄の教え」には「カタリ」のルビ、「偽りの教え」には「カソリック」のルビがふられている。カタリ派の立場ならば、逆にカソリックこそが異端であるという考えである。互いの「正義」のぶつかり合いなのである。戦って(もしくは相手を無条件降伏させて)自分たちの信仰こそが正しいと証明する。勝った方が正義、という考えになっていく。某先生曰く、「異教徒は悪魔である(だから全員殺さねばならない)」から「異教徒でも殺さなくていい」という考えになり、ヨーロッパでの地獄の宗教戦争が終わるのは三十年戦争まで待たねばならなかったという。この辺りの経緯を語るのが目的ではないし、そもそも私より詳しい人が大勢いるだろうからこれ以上触れない。

 

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シンフォギア楽曲―立花響と藤岡弘、

 戦姫絶唱シンフォギアにおけるキャラクターソングは、作中での各キャラクターの思いはもちろん、作中で描き切れなかった心情なども歌詞に盛り込まれている。 つまり、その深層心理が色濃く反映されているということだ。いくつか取り上げてみよう。

 最初は『正義を信じて、握りしめて』である。歌うのは立花響(CV:悠木碧)。タイトルから、さぞ正義のすばらしさを高らかに歌い上げた楽曲と思われる方もいるかもしれない。しかし、歌詞はこうだ。

 

「ヒーローになんてなりたくない 想いを貫け…321 ゼロッ! そんなものがいらない 世界へと変える為にBurst it 届け」

 

 なんと、ヒーローにはなりたくないと言っているのである。これを読み解くには、やはり「ヒーロー」であった藤岡さんの考えが参考になる。

 

「悪によって成り立つのがヒーローなら、それも必要がない。(中略)いわゆる『正義』という心の状態が、普通の状態になれば、この世に正義という言葉がないはずです。悪という言葉もない。私は悪という言葉も、正義という言葉も辞書からなくなって欲しいんです。これが本当の意味での平和であり、自由であり、幸せだと思います。」

 

 立花響と藤岡弘、思いは同じであろう。響は、言葉が通じる相手であれば、どんな相手であろうとまず「話し合おう」と手を差しのべる。しかし、相手はそれを拒絶する。だから、今は目の前の敵と戦うが、永久に戦い続ける!というのではない。ヒーローも、「正義」「悪」という言葉もなくなるような世界にするために戦うのである。この点、「正義」という言葉の意味を考えるのではなく「なくす」=「常に心をその状態にする」という点で、これまでにはなかった見方である。

 「正義」という歌詞を含む立花響の曲には、他に『リトルミラクル-Grip it tight-の「正義を信じ 握りしめよう」という歌詞、そして『負けない愛が拳にある』において「私が選ぶ正義 固め掴んだ正義 離さないことここに誓う」という歌詞がみられるが、今回は触れない。

 

 

シンフォギア楽曲―立花響とサンジェルマン

  今回特に取り上げたいのは、『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』における響とサンジェルマン(CV:寿美菜子)の関係だ。簡単に概要を説明すると、サンジェルマンはパヴァリア光明結社(イルミナティが元ネタ)という組織に所属し、自分が過去に受けた苦しみから「人類を支配から開放する」という正義のために戦っている。イルミナティ陰謀論では、彼の組織は宗教や政府、愛国心、結婚制度などあらゆるものを破壊するという行動理念で動いているとされるので、その点を踏まえたものだろう。しかしそれは、他の誰か、いや多くの人を犠牲にするやり方になってしまう。サンジェルマンは、自身が蘇らせ、信頼しあっていた仲間のカリオストロとプレラーティ(二人とも元ネタとなった人物がいる)が、組織のリーダーである局長・アダムの野望のために使い捨てられていたことを知る。カリオストロとプレラーティの二人は、アダムではなくサンジェルマンのために戦っているんだ、と言っていたことがある。しかし、アダムの野望のために、自分たちが利用されていた。二人は死んだ。そしてサンジェルマンは、響と共闘するのである。

 そのシンフォギアAXZ10話で歌われるのが『花咲く勇気』だ。本来は響のソロ曲であり、作中でも響が一人で歌っている。しかし、シンフォギアライブ2018の二日目には、まさかのサンジェルマンとのデュエットが実現するサプライズがあった。悠木さんが偉い人にかけあったという。悠木さんと寿さんが仲がいいということもあるだろうし、悠木さんが作品、響に特に思い入れがあった(響に恩返しをしたいと言っていた)から、というのもあろう。

 問題としたいのはその歌詞である。一つずつ見ていこう。

 

「互いに握るもの 形の違う正義だけど(今はBrave)重ね合う時だ」

「支配され(噛み締めた)悔しさに(抗った) その心伝う気がしたんだ」

 

 響は、サンジェルマンの「支配され」「悔しい」という思いを理解してあげられている。この共闘以前、サンジェルマンと響は戦っている。その際、響はサンジェルマンに対し「やっぱり戦うしかないんですか!」と問い、サンジェルマンは「私とお前、互いが信じた正義を握りしめている以上、他に道などありはしない!」と応じる。やはりここも、既にみたカタリ派と十字軍のような、互いに相いれない正義同士のぶつかり合いなのである。ただ、宗教戦争では互いを「悪魔」であると思い、殺し合いをする。一方で、ここでのサンジェルマンは相手の信念を「正義」であると認めている。この点は大きな違いといえよう。それでも、争うことは避けられないという運命ではあるのだが。

 これ以降の歌詞も見ていこう。

 

「敵でも仇でも 何かのわけがあって決意を食い縛り ブっ込む(大義を)」

「運命の(歯車が) 少しだけ(ズレてたら) 友だった気がしたんだ…絶対」

「譲れない(譲れない)交差した手と手に他の出会いでならば…と咽ぶ」

 

 サンジェルマンにも「わけ」がある。そして、もしかしたら友として出会えたかもしれない。他の出会い方であったならばよかったのにと涙する。あくまで相手の思い、信念を尊重しつつ、「手を取り合いたい」のである。この点、序盤に触れた藤岡さんの考え方と共通する部分が一部あるように思う。もしかしたら、自分もショッカーの改造人間として世界征服のためにショッカーの手先になって働いていた側だったかもしれない。凶悪な怪人たちの仲間だったかもしれない。だから、怪人を倒しても嬉しいという気持ちにはならない。相手(いわゆる敵)のことを理解してあげられているからこそ、こうした思いになるというものである。

 物語の終盤、サンジェルマンには「取り合えるものか。(世界に)死を灯すことでしか明日を描けなかった私には」というセリフがある。響の思いは伝わった。自分のこれまでやってきたことを振り返ると、自分には響の手を取る資格などないという思いなのである。

 

 

 以上、今回も長くなった。私見であるが、やはり多くの近代国家や宗教の戦争というものは、サンジェルマンの言うように「互いが信じた正義を握りしめている以上、他に道などありはしない」という理由で引き起こされるものだと思う。その「正義」にはヴィレムの言うように中身が私利私欲のような汚いものの場合もあるだろうし、響たちのように熱い思いであるかもしれない。

 近々『さよ朝』の補足考察をした後は暫く更新しない…と思うが、また何かあった際には読んでいただけると嬉しい。藤井六段風に言えば、望外の僥倖である。