憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士の人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

『英雄たちの選択』崇徳院回の内容まとめと補足史料と感想と―中編

 さて、番組の続きだ。『百人一首』の崇徳院の歌「瀬をはやみ」が紹介される。谷知子氏の訳を拝借すると、

 

 「瀬が速いので、岩にせきとめられる滝川が真っ二つに分かれても、いつかまた合流するように、恋しい人と別れてもまたいつかは逢おうと思う」(谷知子編『百人一首(全)』)

 

 番組では、「せつない恋の歌として名高いが、父・鳥羽上皇との和解を願う歌とも読める」とナレーション。なるほど、その発想はなかった。この歌が作られた時期は崇徳の配流以前であるが、もし仮に作られたのが配流後であったならば、再び都に帰りたいと願っている、という解釈もできたのになと考えたことはあるが(実はこの谷氏の本でも同じ読み解きが書いてあって当時は驚いた)。

 

 明大の山田哲平氏「史的な史料は利害関係によって成立しているものだから、何が本当か全然わからない。和歌は本人の心情を書いているわけだから、より正確な歴史的な史料になると思う。」

 

 確かに史的史料は、勝者の側の歴史認識で書かれていたりするものだ。一方で和歌には本人の心情が書かれていると。まあ本歌取りや題詠など和歌と言っても様々なものがあるから一概にそうと言えるかというと疑問であるが、この話を始めると長くなるのでやめておこう。山田氏は、崇徳の和歌を一首紹介する。

 

 「秋の田の穂波も見えぬ夕霧に 畔(あぜ)づたひして鶉(うずら)なくなり」

 

 ナレーション「田んぼのあぜ道に従って歩くしかない飛べない鶉。父に翻弄され続けた人生への諦めか。」山田「自由意思で動いていると思っていながら、結局は敷かれた線路の上をただ走ってるだけだと。物凄い自分を客観的に見てますよね。」崇徳院初度百首が最初の出典だろうか。この点は不明であるが、『続詞花和歌集』に載っているようだ。本当に崇徳がこうした心情を歌に反映させたのかは断定できないと思うが、『保元物語』では、彼の心情が歌に詠み込まれたものがいくつか存在する。例えば、敗戦後に崇徳が逃げ込んだ仁和寺(同母弟で出家した覚性法親王がいるため)で詠まれた歌二首。

 

「思キヤ身ハ浮雲ニ成ハテテ嵐ノ風ニ任スベシトハ」

「憂事ノマドロム程ハ忘ラレテ醒レバ夢ノ心地コソスレ」

 

 一首目は自身を浮雲に例え、これから自分はどうなってしまうのかという心情を表したものである。「嵐ノ風ニ任スベシトハ」という部分から、「浮雲」である自分の力ではどうすることもできないという思いも感じられる。

 二首目は以前も取り上げたが、当ブログのタイトルでもある。「憂事」とは、まさに今、自身が置かれた状況のことであろう。眠っている間はそれらが忘れられるといった点は、現実からの逃避願望とも受け取れる。

 

 さて、番組ではここで新たな登場人物が加わる。

 

 「行き場のない葛藤と孤独を抱える崇徳上皇に近づく一人の男がいた。時の左大臣藤原頼長である。摂関家藤原氏の頂点に立つエリートにして、日本一と称された知識人でもあった。」

 

 出ました頼長。一部界隈では自身の男色のことが書かれた日記『台記』で有名。なお番組の中ではその件は全く触れられず。番組では「日本一の大学生」の部分が引用。和漢両方の知識に精通。これもまた『愚管抄』からである。「大学生」は今と同じ大学生という意味ではなく、「知識人」「学者」といったところか。

 「(鳥羽)院の主流派などとしばし対立し、『悪左府』横暴な左大臣と揶揄される存在でもあった。」これは本人の厳格な性格などの問題もあろう。「悪」は必ずしも「悪い」という意味ではないのであしからず。「激しい・荒々しい」という解釈でもいい。「後白河天皇側についた実の兄・忠通の謀略により、政治の中枢から外されてしまったのである。」頼長は天才。ゆえに、父親である忠実は、頼長を溺愛。忠通を勘当、弟である頼長に家督氏長者)を継がせる。忠通は当然面白くないわけで。ちなみに「謀略」とは、忠通が「近衛天皇が若くして崩御したのは忠実と頼長が呪詛したから」と鳥羽院に讒言、でっちあげを行ったことを指すか。こうして排除された者同士、崇徳と頼長は別にそれまで仲が良かったわけでもないのに接近していく。

 更に、武士が公家へ鬱憤を募らせている。

 

 元木「これまで武士が敵を倒すと言えば盗賊とか辺境の反乱、今度は都で大活躍するチャンスかもしれないと。武士にしてみればこれはありがたい。うまくいけば俺たちも公卿になれるかもとそんな思いを持っていたかもしれない。」

 

 さあここにきて、天皇家摂関家、そして武士たちの野望まで絡み始めた。

 運命の1156年。鳥羽院崩御。そして立つ噂。番組での「上皇左府同心して軍を発し国家を傾け奉らんと欲す」とは『兵範記』の引用。こうした噂が立っていたのは、以前の記事で引用したが『保元物語』でも同様だ。

 ナレーション「それは、後白河天皇側が仕掛けた挑発でもあった。更に、後白河天皇側は警護のためと称し兵を招集。」さあどうするか。ここで、番組タイトルにもある崇徳の「選択」がある。

 

一「謀反の意志など毛頭ないと恭順の意志を示そう」

二「院の独裁が続けば権力闘争は終わらない。これまでの院政は間違っている。後白河に武力で打撃を与えてでも、混乱を断ち切ろう」

 

 なるほど、番組では崇徳と頼長が、自分たちが権力を握り、院政をしたいという野望のために戦うという『保元物語』のような解釈はしていない。院政を正そうという崇高な目的のために戦うという解釈を採用しているようだ。

 ここでいったんスタジオへ。

 

 萱野「(崇徳は)相当葛藤があったと思う。自らが理想とするこれまでの美しい権力の在り方を体現・回復しようという思い。武力で行ったら品位の否定になるというジレンマ。」

 

 夢枕「頼長という男が曲者だと思う。頼長がいなければ可能性としては抑えた可能性もあったと思う。歴史にIFは禁物だが。頼長は天才、合理主義者。激しい言葉で今やらずいつやるんだと崇徳に説いたと思う。」

 

 磯田「崇徳と頼長は反主流派。彼らの言うことはもっともらしい、昔の摂関政治をやってたように家柄のある人が政治をやるべきである、が、これまでのやり方が正しいから元に戻すべきという側は負ける法則がある。暴力を使った政治闘争はやったことがない崇徳は乗っちゃった。」

 

 山田「当時、京都は戦乱に巻き込まれていない。貴族たちは戦いを知らないと思う。生きる死ぬが概念的にしかわかってない。何か戦いがあるけど崇徳は自分は大丈夫だろうくらいにしか思ってなかったのでは。」

 

 『保元物語』の方では、頼長は崇徳にぜひ立ち上がるべきだと煽っている。まさに「いつやるの?今でしょ!」というわけだ。当然、崇徳が復権すれば、頼長自身も権力を回復できるからという理由であるが。頼長が曲者という夢枕氏の指摘には私も同意したいところである。天才ゆえの思い上がりと失敗である。

 山田氏は当時の都の貴族の戦いというものへの見方などについて述べる。いわゆる「戦う天皇」というのは、過去の例であれば壬申の乱に勝利して即位した天武天皇などであろう。崇徳より後の時代、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は、そうした天皇にあこがれた。なぜか。彼は、三種の神器である剣を持たずに即位した。剣は平家滅亡の際に、壇ノ浦に没したからである。そのことがコンプレックスとなった後鳥羽上皇は、武芸にも興味を示すやや特殊な天皇となった。そして最後に、承久の乱を引き起こすこととなるのはまた未来のお話。

 さて、ついに崇徳の選択の時だ。保元元年(1156)7月9日。動き出す崇徳。選んだ選択は開戦。ナレーションでは、崇徳側には源為義、為朝親子などの武士が参集したと語る。出ました為朝。巨大な強弓を扱う猛将。『保元物語』の主人公。作中では2m10cmの長身。一矢にて舟を沈めたり、一矢で一人の鎧武者を射抜き、後ろの武士の袖にその矢が刺さったり。『吾妻鏡』には、リアルの為朝と戦った武士(大庭景能)の回顧がある。「弓の達者」ではあるが、為朝は体に比べて弓が大きすぎたのでどうにか矢を避け「膝に矢を受けてしまってな...」で済んだという。まあ物語はあくまでフィクションなので。

 一方の後白河方の武士としては源義朝平清盛が紹介。義朝はおなじみ頼朝・義経の父。先ほどの為義は、義朝の父。親子・兄弟で敵味方に分かれているのである。天皇家が崇徳(兄)―後白河(弟)、摂関家藤原氏)が頼長(弟)―忠通(兄)、平家が平忠正(清盛の叔父)―清盛(甥)などに分かれている。今回は省略するが、細かく見て行けば、特に武士は一族同士で敵味方に様々に分かれているのである。

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 7月11日未明、後白河軍の奇襲。火攻めもあり崇徳側敗退。4時間で終了。番組内では一分くらいで終戦。早い、早すぎる。物語の方にある為朝の活躍などはスルー。こうして為義や忠正など、崇徳側に付いた武士は斬首へ。番組内でも350年ぶりの死刑復活と語られる。810年の薬子の変以来の復活。そう言えば、番組内では頼長がどうなったか語られていない。逃げる途中、首に矢が当たり、それが致命傷となって死亡している。

 そして崇徳に対する処罰はと言えば讃岐国へ配流。

 

 元木「和解できない、話し合いでは解決できない、そういう事態が起こったら武力衝突になる。正統な帝王、摂関家中心の時代から武力で奪い合う時代になった。」

 

 再びスタジオへ。

 磯田「頼長と崇徳院原理主義者。だけど自分たちに集まってくる武家は動員力がなかった。為朝が一人頑張れるくらい。」

 

 夢枕「唯一為朝のところはいいところ。(崇徳側が)勝つチャンスはあった。為朝が夜討しよう火をつけようと斬新な戦略を提案するが、頼長が止めた方がいい、作法にのっとってないので夜が明けてからにしようとか言って却下する。」

 

 山田「やはり当時の戦い方として、作法があるので、恐らくそうしたものを頼長は重視した。そういう奇襲だったりというのをやってはいけないという考えがあった。」

 

 萱野「あからさまな武力行使が肯定される時代。政治秩序の大きな転換。」

 

 『保元物語』では、為朝は夜討ち・火攻めを提案するが、頼長はこう答える。「為朝の考え、荒々しいやり方だ。思慮が足りない。年が若いからだ。夜討ちなどというのは、十騎、二十騎でやる私ごとの戦いの場合だ。何と言ってもやはり天皇(後白河)と上皇(崇徳)とが国政の掌握をめぐって争いなさるのに、夜討ちがよかろうとも思われない。」確かに、頼長は作法にのっとっていないという理由で、為朝の意見を退ける。また、「夜が明けてから」というのは、その頃に僧兵が援軍に来るからという理由である。結局、崇徳側は逆に奇襲にあい、敗退することとなる。ちなみに、夜討ちを許可した後白河側の藤原信西は、「火攻めをすると寺が焼けてしまうのでは」と心配する義朝に対して、「帝が相応の力を持っていれば一日で建てられる。火を付けろ」と指示する。崇徳側とは何もかも真逆であった。

 

 夢枕「新しい文学の形式が生まれてきた。『平家物語』のような形式、『保元物語』から始まって、素晴らしい物語ですよ。血沸き肉躍る所もあるし、悲しくてやりきれないところもある。滅びゆくものを愛するという典型的な物語を生んだ。」

 

 夢枕さんはさすが、作家という意見である。この戦乱がきっかけとなり、いわゆる「滅びの美学」を盛り込んだ、日本人が大好きな物語が生まれてきたというわけだ。

 

 「さまざまな過程で口頭の芸と交渉を持った軍記物語は、それゆえ、民衆のなかに受け容れられていき、かつ、民衆の望む方向へ成熟させられた。正しい歴史事実を伝えるよりも、人々と感動を共有することが求められたのである」(日下力『いくさ物語の世界』)

 

 軍記物語は、あくまで創作、フィクションだ。歴史書ではない。だから、民衆は為朝の活躍に心躍らせ、配流となった崇徳の姿に同情する。民衆もまた、こうした物語を欲したのであった。

 さて、ここで番組は崇徳の流された讃岐(香川県)へ。次回で最後。

 余談であるが、この番組を最初に視聴した当時も、「選択」にまつわるある曲が思い浮かんだ。『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』のEDである高垣彩陽さんの『Futurism』である。サビの歌詞はこうだ。

 

 「正しいか? 間違いか? いつも答えなどなくて選んだ道がただ目の前に まっすぐ続くだけ」

 

 夢枕氏の言っていた通り、歴史にIFは禁物だ。IFを考えるのは楽しいけれど。人生は、大小問わず選択の連続である。しかし、結果的にその選択が間違いだったとしても、「選んだ道がただ目の前に まっすぐ続くだけ」の状態になってしまう。よくあるループものや、タイムマシンなどがあればやり直しができるが、実際はそんなことはない。崇徳は、葛藤しながらも、戦うという選択をした。『Futurism』の二番のサビには「いつか笑ってこの選択に頷ける時まで」という歌詞もある。崇徳は配流にされ、最後まで都に戻りたいという思いを抱いていた。それは一番の心残りだ。しかし、それを除けば。ようやく都の権力闘争、陰謀から解放された、という思いもあったのだろうか。この点は想像するしかあるまい。

 

 

 

 

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