憂きまど

タイトルは「憂き事のまどろむ程は忘られて覚むれば夢の心地こそすれ」より。某大学国文学修士の人が趣味丸出しでおくる、アニメや小説の感想を中心になんでも。超気まぐれ更新。読んだ本はこちら→https://bookmeter.com/users/337037 Twitterは→@konamijin

渕上舞『Meteor』の主人公女性について考えてみる~都会的、現代的世界観と生き方~(後編)

 さて、こちらは前編の続きとなる。そのため、まだそちらを未読の方は先に下記リンクからご一読いただきたい。

 

konamijin.hatenablog.com

 

 再び歌詞を追っていこう。

 

揺れる三日月

頬つたう輝きは

瞳に北風が染みたせいでしょ

 

 この部分を事細かに説明するのは非常に野暮である。「頬つたう輝き」=「涙」であることは言うまでもない。三日月が揺れて見えるのは、涙で潤んでいるからである。

 主人公女性は、自身がややセンチメンタルな気分になっている。そして、ふと瞳に宿った涙が流れた理由を、「北風が染みたせい」にするのである。これはある程度大人の年齢である彼女の虚勢的強さのようにも見える。その内側には「つい泣いてしまった、何やってるんだろうな私」という感情も内包されるものと推察する。

 ここで私が紹介したいのが、アイドルカレッジの楽曲『流星群~meteor stream~』である。同じく「流星」にまつわるタイトルが付いた楽曲だ。「おいおい、それはオマエが好きな曲っていうだけだろ!」と思った読者諸氏、最後まで話を聞いていただきたい。

 アイドルカレッジは、王道の応援歌的性質の楽曲を数多く持っているグループである。例えば、『GOES ON』の歌詞は水瀬いのりさんの『夢のつぼみ』と極めて近いスピリッツがあると思っている。

 

 私が注目したい歌詞を以下に示す。公式の楽曲動画リンクも貼っておくので、お手すきの際にでもぜひ一度聴いていただきたい。

 


www.youtube.com

 

掴めない星を必死に掴もうとして 僕らは傷つくけれど

誰だって明日を信じる 夢追い人さ

その名は「希望」

ずっと流星のように夜空を駆け抜けて meteor stream

探してる meteor stream

 

 はるか高い夜空に位置する「星」=「夢」を掴むために努力をすること、時にそれは自分たちを傷つける。しかし、夢はきっといつか叶うという「希望」を信じて進んでいくという思いが込められた楽曲である。

 しかし、この楽曲では、以下のような歌詞もある。

 

僕の夢のために 君の夢のために

時々星達が代わりに泣くんだね

そして今夜ここで 痛みを持ち寄った

いくじなしの僕らに 星が流れた

 

 一緒に夢を追う仲間もいる。それでも、辛くて共に涙を流す日もある。その涙は、自分たちではなく星達に仮託される。

 『Meteor』の主人公女性は、普段は会社員として働く一方で、実は劇団にも所属しており、女優になるという夢があったのだ!…といったような裏設定は存在しないだろう。彼女は今現在、何か大きな夢を追っているわけではなく、ある程度の水準の、平凡なOLとしての暮らしに落ち着いているといえる。そうした、満足ではないが特段不満のあるわけでもない暮らしの中でも、ふと一人で涙を流したくなる日もある。

 自分がどんな人生を選んでも、それが本当に正しかったかどうかは分からない。そして、そんな人生の中の様々なシーンの中で涙は生まれ、寄り添い続ける。

 余談であるが、アイドルカレッジには『星空』ではなく『YOZORA』という曲がある。更に余談であるが、『AKATSUKI』という曲もある。夜が明けた。先日の舞さんのライブでも、セットリストが『星空』からアンコールで『Love Summer!』へとつながり、夜が明けて夏の日差しが降り注ぐ、という粋な流れがあったものである。

 

 そろそろ『Meteor』の歌詞に戻ろう。

 

足りないものだけを

数える癖はまだある

それでもあの頃よりも

まぁ、強くなれたね

 

 「足るを知る」という言葉もあるが、ここで疑問が浮かぶ。ここでいう「足りないもの」とはなんだろう。もう少しお金があれば、という話や、自身のコンプレックス的部分(例えば容姿など)の改良ができていない点、といったものだろうか。

 そして、「あの頃」とはいつだろう。主人公女性が「OL」であるならば、それ以前の学生時代と推測するのが妥当であろうか。さらに歌詞は「まぁ、強くなれたね」と続く。この「まぁ」は注目すべき点である。「学生時代の頃の私と比べれば、社会人としての経験も積んできたし、強くなったよな」と自信を持って言っているわけではないようだ。「まぁ」があることで、むしろ「ここまで色々あったけど、私もよくやってこれたものだよなあ。強くなったなあ」という感慨を読み取ることができるのではないだろうか。

 

いつも大切なものは

多分、簡単に見えない

でもね、心の奥で

駆けぬける Meteor

 

 ここで私が紹介したいのが、前編の記事でも取り上げた、松ヶ下宏之さんの楽曲である。タイトルはずばり『流星』。下記に一部試聴のできるリンクも貼っておく。


www.youtube.com

 

  サビ部分の歌詞をみてみよう。

 

流星を追いかけろ 今消え行く光を

遥か彼方に見えてる物だけじゃない

流星を捕まえろ 願いと言う名の星を

今目の前を通り過ぎたのが ソレさ

 

 曲中の登場人物は、男性の同じく会社員らしい。日々働く中で、世の中は不公平だ、これは誰かに仕組まれているのではないかと感じている。大丈夫かコイツ。そんな彼は、鬱々としている。前回の記事の終わりごろに書いたような、宝くじでの一発逆転なども狙っているようだ。

 しかし、2番以降で、徐々に考え方を変えていく。すると、今まで上手くいっていなかったことも意外とすんなり進んだりする。

 歌詞によると、「流星」とは「今目の前を通り過ぎた」ほどすぐ近くに見えるものだという。

 一方で『Meteor』の歌詞では「いつも大切なものは多分、簡単に見えない」と言っているので、少し違う考え方のように思える。しかし、「心の奥」で「駆けぬける Meteor」があると歌ってもいるのである。

 いかがだろうか。ここに、共通性が見いだせはしないか。実は目の前でたくさん通り過ぎて行っている男性会社員の流星。実は心の奥にある、主人公女性のMeteor。自分にとって「大切なこと」や「幸せ」は自分で気付いていないだけで、実はすぐ近くにある、と言うとありふれたような表現にも思えるが、それほどにシンプルで重要なポイントであるという証でもある。

 二つの楽曲の歌詞が意図しているところは、「流星/Meteor」とは、一瞬で駆け抜け、通り過ぎてしまうという点だ。だからこそ、見逃すこともある。そんな流星を見逃さないためには、内省とまではいかないが、自分自身とちょっと向き合ってみる。すると、確かにすぐそこにある=観測できるではないか、というメッセージを感じ取るのである。流星を観測できれば、その人にとってよりよい道が少し開ける。

 

きっと探しているのは

自分が放つ綺羅星

明日も、がんばろう

ここから…I believe 

 

 この「自分が放つ綺羅星」とは、「自分らしいこれからの人生」ではないかと私は解釈したい。

 そして「明日も、がんばろう」と続く。彼女なりに、折り合いをつけたうえで決意を新たにするのである(この決意は、力強い自信満々ものではない)。明日からも、彼女は毎日のように朝から会社へ行き、働き、夜にそう広くはない家に帰ったら一息ついて、休日には配信で連ドラをチェックしたりするのだろう。

 この歌詞で思い出されるのが、舞さんがライブにおいても語っていた、以下のツイートに関する内容である。

 

 

 そして、こちらに関連すると思われるツイートとして、以下も紹介しておきたい。

 

 

 私はこの2つのツイートを毎日見たいほどに気に入っており、共感もできる。生きる気力・喜びに満ちあふれているわけでは決してない。ただ、「頑張らないと」と言っているため、完全にネガティブな思考で生きており努力なんかしなくていい、というわけでもない。

 ご自身が声優として、またアーティストとして、努力はしなければならない(人生はまだまだ長いのだからそれも無駄にはならないし、無為に過ごすのももったいないだろう)という率直な思いを、私は読み取るのである。

 舞さんが尊敬している声優・アーティストである水樹奈々さんの楽曲『New Sensation』には、「一度きりの人生 楽しむべきだよね絶対」という歌詞がある。「そんなネガティブな考え方は切り替えて、落ち込んでないで人生楽しく生きようぜ!」と高らかに歌い上げる。

 一方、『Meteor』の主人公女性も、そして舞さん自身も、物凄く前向きでエネルギッシュなタイプであるとは言いがたい。ただ、そこが彼女の「らしさ」であり、ファンから共感を呼ぶ理由でもあると思うのである。

 

おわりに

 ここまで見てきた『Meteor』の歌詞は「都会的」であった。そして、日々の暮らしの情景がありありと浮かぶような「現代的世界観」=日常感もある。だからこそ、今まさに現代の日本社会を生きる我々にとって、実体を伴った共感を呼ぶ歌詞と言えるのではないだろうか。

  最後に紹介したいのが、「日本タイトルだけ大賞」を受賞したハ・ワンさんのエッセイ『あやうく一生懸命生きるところだった』(岡崎暢子訳,ダイヤモンド社,2020年,続編に『今日も言い訳しながら生きてます』がある)だ。著者は韓国人。かの国は、我が国とは比べ物にならないレベルの過酷な学歴社会としても知られる。著者は、それまでの会社勤めを辞め(イラストレーターとしての仕事はしており、本書のイラストも自身で手がけている)、自由に暮らしていることを語り、縛られずにみんなもう少し気楽に生きてはどうか、と読者に提案する。日本人が読んでも実に共感できる内容ばかりで、隣国の人たちも同じなのだな、と思わされる。

 このエッセイに、以下のような記述がある。

 

 「努力してもどうにもならないとか、努力した分の見返りがない場合もある一方で、努力した以上の大きな成果を収める場合もある。(中略)見返りとは、いつだって努力の量と比例して得られるものではない。むしろ努力の量よりも少ないか、またはより多いものである。時には見返りがないことすらある。残念だが真実だ。」

 

 先に紹介した舞さんのツイートからも分かるように、彼女は努力をしている。歌唱の技術や、ライブ直後に話題となった腹筋を見ても、それは明らかである。

 努力は無駄ではない。ただ、このエッセイの著者が言うように、努力をしても成果が出ない、思うようにいかないこともある。そんな時、努力し頑張る人の背中を押してくる楽曲も必要だ。それに励まされ、「私も頑張ろう!」と思えたら、歌い手と曲への思い入れも深くなる。素晴らしい出会いと付き合い方だ。

 一方で、『Meteor』のように、少し肩の力を抜いたうえで頑張る方法はどうか?と提案してくれる曲も必要だ。

 これはスポーツの大会や受験など、大きな達成したい目標などがあって、懸命に努力をしている人にのみ当てはまるものではない。頑張って毎日を生きよう、また明日も会社で仕事にしっかり取り組もうという場合にも当てはまる。でも、頑張りすぎない。手抜きをするのとはまた違う。たまにはそんな自分を少し褒めてあげることも大事。それが、主人公女性を通じての、聴き手である我々に向けたメッセージとなっているのではないだろうか。

 この楽曲は舞さん自身の作詞ではない。それでも、「渕上イズム」とでも言うべきエッセンスが、大いに盛り込まれているのである。

 私も、そして皆さんも、「今日もね、がんばった」「明日も、がんばろう」。

 

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渕上舞『Meteor』の主人公女性について考えてみる~都会的、現代的世界観と生き方~(前編)

はじめに

 実に久しぶりの更新である。前回更新もある種の執筆依頼を受けてのものであったが、今回もまた同様である。これは某ラジオで話題となった、いわゆる渕上舞小論文の類であり、私の自由な感想文だ。多分に物語性を盛り込ませていただいたので、「それは違うだろう」という意見もあってかまわない。

 さてつい先日、渕上舞さんの3rdライブがおこなわれた。見て聴いて楽しめる、昨今の情勢下で客席側含め、声出しNGなどの様々な制約を受けつつも、こだわりのあるステージであった。

 私自身は、アーカイブなどを映像で見ることはできても、「感動は生もの」=感動は時間が経つごとにどうしても鮮度が落ちるものであり、率直な感想を書くなら早めのアウトプットがよいという考え方の支持者であるため、ライブの感想はTwitterに終演後即大量投稿する形となった。ライブについての詳細な感想などは、他のファンの方々に譲りたい。

 感動は生ものであるという証拠に、先日聴いていた茅野愛衣さんのラジオ「むすんでひらいて」においても、そのような事例があった。イベントの帰りに番組宛てに感想メールを書いて送った人々が、喜びのあまり誤字を生じさせたりしていたのである。「人々」と書いたように、偶然一人だけ、ではないのだ。茅野さんはそんなメールを、微笑ましく感じながら読んでいた。誤字すらも鮮度の証であろう。

 なお、こうした「感動は生もの」といった話について興味がある方は、『好きなものを「推す」だけ。共感される文章術』(Jini,KADOKAWA,2020)をご一読いただきたい。

 

『Meteor』の歌詞にみる現代的・都会的感覚~歌詞を読み解く~

 今回取り上げたいのは、私がアルバム『星空』の中で特に気に入っている楽曲の一つである『Meteor』である。意味は「流星」。作詞は六ツ見純代さん、作曲は酒井祐輝さん。この2ndアルバム『星空』は全ての新規楽曲の歌詞に星にまつわるワードを取り入れる徹底ぶりで、ここまでテーマを一貫させたアルバムはそう多くはあるまい。この曲も、もちろんそういったワードが盛り込まれている。

 こちらの楽曲について、前回の『バレンタイン・ハンター』の歌詞を順に追っていった記事と同様の試みで、楽曲の話なども交えつつ、また現代的、都会的という点に着目しつつ、述べていきたい。

 まず、アカペラで始まる歌い出しはこうである。

 

ふーっ…と息で

テノヒラ温めた

そっと…聴こう

冬星つむぐメロディ

 

 「冬星」というワード、そして「テノヒラ」を温めるという歌詞から、最初に季節は寒い冬の時期であることが読み取れよう。

 そして、「冬星つむぐメロディ」という部分。夜空に輝く星々を楽譜、ないし一つの音楽であるかのようになぞらえている。星の壮大な物語のような楽曲といえば水瀬いのりさんの『アルペジオ』を思い浮かべる私であるが、こちらの舞台は、後述するように実に現実的でささやかな世界を見せる。

 

ニュースで知った

ふたご座流星群

去年は恋人がいて

車、走らせたっけ…

 

 ここで、アルバムに関する舞さんへのインタビュー記事を見てみよう。以下の部分は特に重要であるため、全文引用する。

 

「曲を聴いた時にメモしていたイメージを六ツ見純代さんにお伝えして歌詞を書いていただいたんです。“決して広くはないワンルームのマンション。6~7畳ぐらい。年齢23歳から35歳ぐらいで仕事はできるほうだけど、彼氏はいない。彼氏がいないことに対して引け目はあるが寂しさを感じるとかでもなく、毎日を淡々と生きている。だけど、ふとした瞬間に寂しくなって、部屋のベランダに出てみたら星がきれいでホッとした”という曲にしたいって(笑)。」

【渕上 舞 インタビュー】私の“好き”“らしさ”みたいなものが詰まってできている作品 | OKMusic

 

 なるほど、こういったイメージがあるらしい。本記事の読者の諸氏も、そんな女性を想像しつつ、続きを読み進めていただきたい。

 歌詞に話を戻そう。「ニュースで知った」とは、仕事に行く前に見ていたテレビの朝のニュース番組か、逆に仕事から帰って何とはなしに見ていた夜のニュース番組か。

 しかしながら、こちらも後述となるが、本楽曲はワードチョイスが「今っぽい言葉」である点が特筆される。ゆえに、このニュースというのも「スマホでネットニュースを見ている」可能性も極めて高いと考えられないだろうか。

 この記事を読んでいる皆さんも、電車での移動時間などに、ちょっとした暇つぶしとしてSNSの他にニュースサイトなどを見るという人も少なくないだろう。新聞を折りたたんで読むという昔ながらの方法を採用しているサラリーマンもまれに見かけるが、そう多くはないというのが、日々朝の電車通勤をしている私の実感である。

 主人公女性は去年、恋人の運転する車で、ふたご座流星群を一緒に見に行った思い出があったのかもしれない。もしそうであったなら実にうらやましいがそれはともかく。だが、現在では何らかの理由で別れてしまっているようである。それでも、未練があるわけでもなければ、二度と思い出したくもない嫌な記憶になっているわけでもないらしい。この点、舞さんが先日のライブで言っていた、そういった物も完全に捨てるのではなく、という話と関連すると思う。あれからもう一年経ったのか、というしみじみとした感傷のようにとらえたい。

 続く歌詞を見てみよう。

 

新しい連ドラ

配信で観れるし

髪を乾かしたら

外へ出てみよう

 

 私が『Meteor』を「現代的」と感じた大きな理由の一つは、ここにある。主人公女性が、連ドラを「配信」で視聴しているという点である。確かに現代では、Huluをはじめとする定額で自由に好きな時間に番組を見ることができるサービスが、自粛・巣ごもり生活にともない更なる需要増をみせている。そういったサービスに加入していれば、「録画」すらも不要だ。

 主人公女性としては、「今度から始まる新しい連ドラは、好きな俳優の○○さんがメインの役どころで出るそうだからとても楽しみ!」というわけではないらしい。おたくの諸氏であれば、自分が楽しみにしている番組は、可能であればぜひリアタイで、SNSハッシュタグをつけて実況などもしつつ視聴したいというものであろう。彼女にとっては、単なる暇つぶし・流行のチェック的な扱いで済ませているのかもしれない。

 ただ、仕事で疲れていると、そういったものを視聴する気力がない(見たとしても、どうせ頭に内容が入ってこない)と思う人も少なくないだろう。彼女がそんな心理状態にある可能性も、また考えられよう。そこで、「髪を乾かしたら」気分転換にドラマを見るのではなく、「外へ出てみよう」と続いていく。

 ここであわせて取り上げたいのが、松ヶ下宏之さんの楽曲『DRAMA ADDICTION』である。松ヶ下さんは、音楽ユニットBluem of Youthでの活動やソロのほか、アイドルマスターシンデレラガールズ佐久間まゆ役などで知られる牧野由依さんのコンサートのバンマスも務める。自ら作詞・作曲、ギターやピアノの演奏もこなすかっこいいおじさまだ。その作風は、牧野さんから「せつないメイカー」と評されたこともある。

 この楽曲は、多分に遊び心のある楽曲である。以下に歌詞を示す。

 

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 この楽曲の登場人物は、会社で夜遅くまでの残業をするはめになっているが、楽しみにしているドラマの最終回が見たくて仕方がない気持ちがあふれ出ている。当日に突然残業をする必要が生じたのだろうか。仕事で疲れてくたくただろう。それでも、ドラマの最終回を早く見たい、という焦りと強い思いを抱いているのである。

 この楽曲は2007年のリリースである。そのためか、録画手段も「Video Tape」なのが時代を感じさせる。我が家でも、この時期まだビデオテープを用いての録画は現役であった。ここが、(感覚的な意味でも時代的な意味でも)二つの楽曲の大きな違いである。なお、松ヶ下さんの楽曲については、後編でも取り上げる。

 

書きかけ ToDoリスト

スマホ、電源オフした

最近、余裕がなくて

そう、消えてた笑顔

 

 仕事・家事も全て含めたものだろうか、ToDoリストの作成をスマホで(ここも実に現代的である。昨今では作詞をスマホでおこなう人も珍しくないと聞く)していたが、一度その作業を打ち切る。あれもこれもやらなくてはいけない、と予定を書きだしていくと、やる前から気が滅入ることもあるのではないか。現に主人公女性も「余裕」がなく、笑顔は消え死んだ魚のような目をしている(そこまでは言っていない)らしい。この「余裕がない」とは日々仕事に追われ、よくいわれるような会社と自宅の往復生活をしていて特別な楽しみもない、という状態かもしれない。

  この「ToDoリスト」については、舞さんも「今っぽい言葉」であると感じたようである。

TVアニメ『魔術士オーフェンはぐれ旅 キムラック編』ED主題歌シングル&2ndアルバムを同時リリース!渕上 舞インタビュー – リスアニ!WEB – アニメ・アニメ音楽のポータルサイト

 

狭いベランダ見上げた

星はほとんど光らない

でもね、心の奥で

駆けぬける Meteor

 

 ここで注目すべきは、「狭いベランダ」と「星はほとんど光らない」という部分である。先ほど「外へ出てみよう」と言っていた主人公女性だが、髪を乾かした(入浴を済ませた)後のため、わざわざ夜の散歩にまで繰り出すつもりはなく、かわりにベランダに出たようだ。ただでさえ冬の夜、そのうえ入浴後。実に冷えるに違いない。ここで、はじめの「ふーっ…と息で」「テノヒラ」を温めるという場面に繋がるだろう。

 田舎の夜空は星がまたたいていて実にきれいであるという話は、例えば、アニメにおいて都会に住んでいる主人公たちが自然あふれるキャンプ場に遊びに来て夜を過ごしているようなシーンでよく耳にする。都会はあまり星が見えないのにね、などと会話を交わす。この点から、主人公女性が牧歌的な田舎の地域ではなく、都会(少なくとも地方都市)に居住していると考えることができる。

 ここで紹介したいのが、『日本型リア充の研究』(古谷経衡,自由国民社,2019年)だ。本書では、「日本型リア充」を「土地取得の先行者たちとその子孫」とする著者独自の定義を用いる。すなわち、戦後間もない頃に、現在では超高額な値段の付いているような都市部の土地を安価で取得し、物件を建てたりしていた「土地取得の先行者たち」がいる。そして今現在を生きるその子孫たちは、そういった財産を引き継いでいる。地方からの上京組など、狭い部屋のうえ高額な家賃の支払いに追われる人々とは真逆の勝ち組でリア充である。ではそうではない我々(著者自身も含む)は「持つ者」である日本型リア充にどう対抗していくべきだろうか、といった内容が、歴史的な事柄も踏まえつつ語られる本である。古谷氏は、同書で「この大都会の一等地に狭小なワンルームを借りるという選択肢は、必然その狭い部屋が「寝るだけ」の空間に変貌する可能性を秘めて」いると述べている。彼女もまた、一人で都市部のマンションに暮らす上京組女性(大学進学を機に上京し、地元には帰らずに就職)という背景があるのだろうか。ベランダが「狭い」ことからも、超高級マンション住みとは考えにくい。

 

指先彩るネイル

ちいさな星が煌めく

今日もね、がんばった

ここから…I believe

 

 なんて世知辛い世の中だ。やはりこの状況を打開するためには、宝くじか今話題の競馬で一発当てるしかないのか、と思えてくる。だが、ここで主人公女性とこの楽曲の聴き手は、ほのかな希望の星を見いだす。ネイルアートに星の装飾がされているのだろう。その小さな星を見て、自分をささやかに励ます。「今日も」という点から、昨日も、また明日も、という思いが読み取れるのである。この感情については、これ以降の歌詞を取り上げる後編で改めて触れたい。

 

 

 

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日本型リア充の研究

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『BLACK CAT』と『バレンタイン・ハンター』に見る渕上舞の女子観~彼女の描く女子像とは~

はじめに

 さて、またしても久々の更新である。ここの存在は忘れていたわけではない。ただ単に、だいたいの話がTwitterで短くまとめれば済む話であるためだ。そのほか、自粛期間でイベントごとがない代わりに、自分でもうんざりするほどに積んである本を読もうと思った。それに時間が費やされていくのである。

 今回の執筆テーマは表題の通りだ。Twitterをフォローなさっている方々はご存じの通り、私は声優オタクである(最近、アイドルオタクなのではないか?という意見も寄せられるが、完全に否定はできなくなっているのもまた事実である)。

 そちらの界隈で、記事執筆運動とでも言うべき流れが発生し、私もその一環として、一つ書いてみる機会を得たわけである。

 『BLACK CAT』と『バレンタイン・ハンター』、この二曲をまだ聴いたことがないという方々は、ぜひ先に下記リンクからご視聴いただきたい。

 


渕上 舞 「BLACK CAT」

 

 


渕上 舞「バレンタイン・ハンター」

 

 本稿では、これらの楽曲の歌詞のフレーズを適宜ピックアップしていき、作詞者=渕上舞さんが、どのような女子像を描こうとしているのか考えていきたい。もちろん、私の自由で勝手な解釈であるので、それは違うと思う、などといった意見もあって構わない。なぜそれを最初に断っておくかといえば、これらの歌詞に対して、多分に私が物語性(想像)を盛り込んだためだ。

かなり長くなっているので、退屈な移動時間にでも読んでいただければと思う次第である。

 

BLACK CAT』の歌詞を読む

 まずは『BLACK CAT』から見ていこう。この楽曲について考えていくうえで、最初に、歌っている本人でもあり作詞者でもある渕上舞さんのインタビュー記事に触れていく。下記にそのまま引用する。

 

「「BLACK CAT」がそうだったんですけど、私が女の子の気持ちを明け透けに書くと女性と男性で受け取り方がまあ全然違って面白いんですよ。男性は私の言葉すべてをいい方向で捉えようとするというか。」

 

「「女にはときにはほかの女の子とライバル関係になって、マウントを取り合う局面もあるんだよ」ということをコミカルに切り取ったつもりなんですけど、男性ファンの方からは「『BLACK CAT』の歌詞がすごく女の子らしくてかわいかったです」って感想をいただいたりして(笑)。」

https://spice.eplus.jp/articles/264581

 

 つまり、この楽曲の歌詞解釈をするうえで、男性的な視点からいい方向で捉える(女の子らしくて可愛い歌詞だな、とのみ受け取る)のは必ずしも正しくないということだ。そうであるならば、男性である私が逆に非・好意的な見方をあえて提示しよう。それは、ワードのチョイスなども含めて実に可愛いらしいとは思うが、本質は恐ろしい女性を描いた歌詞である、という解釈をしていくものである。

 他にも、彼女はこの楽曲について次のように語っている。やや長くなるが、こちらも重要であるため、そのまま引用させていただく。

 

「こういう歌詞を書くの、すごく好きなんですよ。さっき、カフェに行って周りにいる人の話を聞くのが楽しいと言いましたけど、女性グループの会話は本当に「BLACK CAT」の歌詞みたいなんです。中でも大学生ぐらいの子たちの会話が一番面白いですね。「やっぱり彼氏にするには年収1000万はないとダメ」みたいな。」

https://natalie.mu/music/pp/fuchigamimai/page/3

 

「「BLACK CAT」は、旅する国の中では都会をテーマにしています。便利なことや楽しいことも溢れてるけれども、そこにはちょっとひねくれた人がいたり、汚れた部分もあるという歌です。日頃の不満を言う女の子、「裏垢女子」みたいな感じがいいなと思って。表ではキャピキャピを演じているけれども、家に帰れば文句ばかりつぶやくみたいな(笑)。そこがタイトルにもある子猫ちゃん要素であり、ブラックな部分。恋愛って、ドロドロ要素もありつつもでも女の子が一番輝く瞬間でもあるから、そこをうまく混ぜ合わせてできないかなっていうところで、恋愛要素を入れつつの女の戦いという内容になりました。ただ、スタッフ陣からは、聴いて文句ばかり言われていると嫌な気持ちになるから、その中にも、共感できるところを入れたいという意見があり、それらを採り入れてこのような歌詞になりました。」

https://akiba-souken.com/article/38094/?page=2

 

 こうした内容を踏まえたうえで、ここから歌詞を順番にピックアップして見ていこう。

 

「ねぇねぇ見て見て!限定のlipstick Kiss me似合ってる?上目遣いchance Target!Lock on!私の手の上で ほら 踊る姿やみつきなの(やめられないの)」

 

 ここだけを取り上げても、この女性は自分自身の見せ方を心得ているといえる。これまでの経験から得たテクニックなのか、元来の才能なのか。「ねぇねぇ見て見て」という良い意味での軽さ(これが「キャピキャピ」というヤツか)。「lipstick」がわざわざ「限定」なのも注目すべきポイントだ。自分はそういう限定モノを使っていて、おしゃれへの意識が高い、ちょっと特別な女性というアピールのように思える。こういうものを自慢したい、それにより褒められたい気持ちなどは、先ほどのインタビュー記事にあったように同性であれば「共感」する要素なのだろうか。そして、狙いを定めた相手には上目遣いで愛嬌たっぷりに近づいていく。そうすると、自分の手の上で踊る男性が出来上がる。この歌詞からうかがえるのは、そんな男、チョロいな!という余裕である。それは同時に自分自身の女性的魅力の証明となり、何度でも味わいたい甘美で中毒性のあるものになっていく。

 

「女はみんなライバルだから 平和主義だなんて言ってらんないじゃん?わかる?」

 

 こんな話をご存じだろうか。我が国の選挙では、中年のおじさん政治家に対して、それよりも若く経歴もしっかりとした新人の女性を対抗馬として立て、勝利するという戦略が取られることがある。メディアで小泉チルドレン小沢ガールズと呼ばれた人々だ。では逆に、権力を既に得ている政治家の女性に、次回の選挙ではどう勝とうとするか。やはり同性(女性)を対抗馬にするのだ。そうすることでメディアは「〇〇選挙区は女性同士の戦い!」と面白おかしくワイドショーなどで取り上げるようになるのである。つまり、女性にとって一番のライバルとなり得るのは、まさしく同じ女性なのである。平和主義などはきれいごとでしかなく、同性の中でいかに自分を際立たせるか=他の女子を上から見下ろし、マウントをとっていくかに力を注ぐ。男たちの知らない、そんな軍国主義的暗闘が水面下では行われているのだろう。

 

「もうちょっと近づく頃には 私のルールでKnock down ギュッと握り返して欲しいの

瞳閉じてwaiting」

 

 注目すべきは、「私のルールで」という点。このテリトリーの支配者は男性側ではなく女性側であり、そのルールに反して近づいた者は容赦なく打ち払われる。男性は、彼自身でも気づかぬうちに、ある種の「支配」を受ける側に立つこととなるのだ。本質はそうであるにも関わらず、男性側は更に彼女の魅力に引き寄せられる。

 

「嘘つきなMy Love 私だけSweet Heartよそ見はしないで 手まねき まばたき 甘い声出しちゃって」

「意地悪にMy Love あなただけSweet Heart狂わせて こっち向いて 遊び飽きるまで

Can’t stop」

 

 こうなった後は、「甘い声」などで相手を魅了しつつ、「遊び飽きるまで」そうした関係を続けていくのである。遊び飽きられたらどうなってしまうのか。そして男性は、先述の通り彼女の魅力から逃れがたいという状況にある。

 

「ねぇねぇ知ってる?あの女(こ)の胸のjewelry Oh oh…運命のイニシャルなんだって(笑)

Danger!Keep out!思わぬ落とし穴 嫌んなっちゃう それって挑発?私のエリアでGo away」

 

 さて、ここから二番だ。女友達同士の陰口的会話なのか、意中の相手(男性)との会話なのか。普段の軽いノリ、テンションで、他の女性の胸のアクセサリーを小ばかにする。なかなか意地が悪い。もしかしたら、わざわざ当人に聞こえるように言っているのかもしれない。歌い方も、そんな雰囲気が感じられる。狙いを定めた男性と自分がいるエリアに意図して入り込んで来ようとしている別の女性(ライバル)のそうした情報を得て、貶めている。それも、「あいつ痛いよね~」と、話の相手に同意を求めているかのような。そういった調子で、侵入を試みる邪魔なライバルを徐々に「排除」していくのだろう。

 

「強く熱く抱きしめてみて 埋め尽くす程ココロ戯れてJust kidding」

 

 ここでは遂に情熱的な愛の感情が芽生えてしまったのか、と一瞬思わせるが、最後に「Just kidding」が付くことで、あくまで戯れ、冗談であることが分かる。しかしながら、こういった態度を取られると、男性側としてはむしろドキドキするものである。チョロい。

 

「バカみたいMy Love 私だけSweet Heart 何か物足りない ときどきドキドキ 刺激をちょうだい、なんて」

 

「大胆にMy LoveあなただけSweet Heartおかわりは お預けね オトナの駆け引き ご機嫌取りは もうたくさんよ すり抜けたら holding」

 

 男性側も、この女性に対して気を引こうと「ご機嫌取り」を試みる。それは高価な品をプレゼントをするのかもしれないし、愛の言葉を語るのかもしれない。しかし、そこは経験豊富な彼女。異性からそういった扱いを受けることに慣れているのだろう。もっと刺激的な何かを求め、その程度では満足しないようである。

 

「嘘つきなMy Love 私だけSweet Heartよそ見はしないで 手まねき まばたき 甘い声出しちゃって」

 

「意地悪にMy LoveあなただけSweet Heart狂わせて こっち向いて 誘って だって仕方ないよね もっとワガママ聞いて お願い Can’t stop」

 

 女性は意図して男性を支配しているが、男性側はそこに恋人としての本当の愛を感じているのではないか(むしろ、自分が彼女を支配できていると勘違いしているかもしれない)。そんな男性を、女性はまるで猫のような「手まねき」や「甘い声」で引き続き翻弄していく、それで満たされるようでいて、まだ満たされていないといった具合である。

ここまでこの楽曲に登場する女性へのある種の「狡猾さ」を明らかにしてきたわけだが、それでも私はこの楽曲に対し、確かに「憎めない感じとかかわいらしさ」を感じざるを得ない。それは可愛いMVや歌声の影響も加味すべきか。ただ、男性側からすれば、そういったある種の「あざとさ」を持った女性に弱いという人も少なくないのでは、という単純化された説明だけでいいのかもしれない。

 

バレンタイン・ハンターの歌詞を読む

 続いて扱う楽曲は、『バレンタイン・ハンター』である。こちらの楽曲は、ご本人がインタビューで語っている通り、「ワケがわからなくてもいい曲なので、命を懸けて“バレンタイン”という名の戦場に赴く女戦士」を高らかに歌い上げた楽曲である。

この楽曲のMVの中で、舞さんは手に大きな旗を持っており、さしずめそんな女戦士たちをまとめ、勝利へと導く女神か、はたまた総指揮官のようなポジションか。

バレンタインデーを扱った楽曲は数多く存在する。有名どころであれば、国生さゆりの『バレンタイン・キッス』の名前がまず挙がるであろう。アニメ・声優関連では、アイドルマスターにおける『バレンタイン』や井口裕香の『Valentine Eve』などを挙げたい。アイドル界では私が推している純情のアフィリアの『魔法のチョコレート伝説』といった楽曲が存在する。

 これらの楽曲に共通しているのは、バレンタインデーというイベントは「一年に一度しかないチャンス」であると位置づけている点にあるといえる(『魔法のチョコレート伝説』は、「ああ 一年はあっというま 一日は長いね」がその意味を背負っていると考えている)。後述するが、それは本題の『バレンタイン・ハンター』でも同様であると思われる。

 さて、この楽曲では、「バレンタインデー」を戦う女性の日と位置づけ、「2月14日の夜に祝杯」をあげる=意中の相手を射止めて勝利することを目指す。当然、勝利の後は、意中の相手が気をそらさないよう、引き続き様々な恋愛テクニック、手段が講じられていくのだろうが、それはまた別の物語だ。

先ほどまでと同様に、いくつか歌詞を見ていこう。

 

「そう媚薬入りの蜜 手に入れてからが勝負よ」

 

 そもそも、チョコレートの歴史は古く、マヤ人やアステカ人にとって原料のカカオは「神秘的なパワーの象徴」であり、神々への供物にされたりしたようだが、そういったチョコレートの成り立ちについての歴史的な話に興味がある方は中公新書の『チョコレートの世界史―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』(武田尚子中央公論新社)を読むと面白い。

チョコレートはかつて「媚薬」であるとされていた。私がつい最近読んだ漫画・『薬屋のひとりごと』(日向夏 猫クラゲ、スクウェア・エニックス)は、薬屋の娘・猫猫を主人公とする物語である。昔の中国風の架空の帝国を舞台にしており、その宮廷に下女として売り飛ばされた猫猫は、持ち前の薬に関する知識と探求心で様々な事件を解決していく。そんな中、猫猫の上司にあたる美形の宦官・壬氏が、彼女に媚薬を作ってもらえないかと依頼する。類するものを作ることは可能と応じた彼女が作ったものこそ、「巧克力」(チョコレート)であった。

 この歌詞ではそういった歴史的経緯=迷信的なものを踏まえているのか。まさか本当に市販されているような怪しげな媚薬を手に入れて、チョコの中に混ぜて落としに行くような恐ろしいことはしていないだろうと思いたいが。

続いて、サビを見ていく。印象的な「shooting chocolate」というフレーズは、単純な和訳にすると不思議な言葉だが、なんとなく語呂が良いというのは間違いない。チョコレートの銃弾でもって相手のハートを撃ち抜けということか。

歌詞を丁寧に追っていこう。まず「宣言高らかに バレンタインデーが始まるの」「エンドレスラブソングBGMに」という部分。これは言うまでもなく開戦宣言であり、「エンドレスラブソング」は戦意高揚のためのいわゆる行進曲的な音楽か。続きを見ていく。

 

「いざ命をかけた バレンタインデーが始まるの」

 

「掛け違えたリボン結び直して 集結せよレディー」

 

 この戦いは「命をかけた」ものであるとする。やや大げさな表現かもしれないが、こちらも比喩としての「それくらいの覚悟で臨まなければ、望む勝利は得られない」という女子たちの意気込みであろうか。同じような覚悟を持って集結した女子の軍団が、各々の戦場へと身を投じていくのである。

 そして個人的に注目したいのは、「掛け違えたリボン結び直して」だ。この部分は、期待と焦燥が入り混じったから「掛け違え」のうっかりミスをしてしまったものなのか、実は戦いに慣れていないのか(バレンタインデーにチョコを渡したという経験がこれまでにほぼない、または手作りをした経験がなく、市販品で済ませていたので結び方をよく知らず間違えたとする解釈)、それとも両方なのかは、やや断定しがたい。

ここで併せて取り上げたいのが、先述の井口裕香の『Valentine Eve』だ。この楽曲には、このような一節がある。

 

「手作りは やっぱりラッピングが命 用意してたのに何度もやり直し紙はぐちゃぐちゃ やりきれないあきらめない でもどうしよう」

 

 タイトルの通り、バレンタインデー前夜に支度をしているひとりの女子の気持ちが歌われている楽曲である。彼女は、不器用ながら自分で思いを込めてチョコを手作りした。翌日がバレンタインデー当日であるために、期待と焦燥がある。そして気持ちは先走り、見よう見まねで今度はおしゃれなラッピングにチャレンジしているがうまくいかないよ、という気持ちが歌われている。ちなみに、この楽曲にも「決戦のValentine」という歌詞があり、やはり女子にとってバレンタインデーは重要な戦いであるらしい。

 『バレンタイン・ハンター』に話を戻そう。戦う覚悟を決め、さあ目指せ祝杯!という、強い女性に見えたこの楽曲の女性であるが、こうした解釈も踏まえると、ある意味その裏には少しの虚勢が含まれているとも読めるかもしれない。女戦士たちの中にも、過去の経験により戦いに慣れている者と、そうでない者が存在するのである。この戦いに勝利し祝杯をあげるという目標は全員共通しているが、個々が戦う相手やこれまでの経験値は、当然異なるのである。

 

チュートリアルは 必要不可欠な存在なの?スタートダッシュが肝心よ 忘れちゃいけないのは timing」

 

 こちらの歌詞は、一番の「マニュアル通りの会話 なんてつまらないんでしょう」という部分と親和性があるように思われる。正攻法でじっくり攻めていくよりも、まさに兵は拙速を尊ぶといったところか。ただし、猪武者のようになるのではなく、「タイミングは見極めるように」=「勝機は見逃すな」と、女戦士たちに対して勝利の女神/総指揮官は助言するのである。

 

「スウィートルームみたいな 非現実的に酔いしれたまま ねぇ目を逸らさないで狙うは貴方の心臓(ハート)一点突破」

 

 ここからが女性の恐ろしさ。愛嬌たっぷりに、しぐさや表情豊かに相手の男性の目を見て、自分の世界に引き込んでいくのだろう。そこからが、一気に攻勢をかけるべき「タイミング」だ。続くサビも、「立ち止まるな進め!」「さぁ宣戦布告のベル鳴らし」と戦いに向けての強い鼓舞の表現が続く。「ランキングなんてただの世迷イ言」とは、朝の情報番組などに差し挟まれる「今日のあなたの運勢、星座占い」のようなランキングを指しているのだろうか。もしそこで恋愛運が低かったりしても気にすることはない、そんなものではなく自分自身の勝利を信じて迷わず進めという激励か。

 

「革命的な(そんな無理して頑張って)魅惑の味(欲しいものはナァニ?)今夜中に(中途半端な愛情)手に入れたいの」

 

 こちらは歌唱自体に少し違った雰囲気も漂うパートだ。バレンタインデーというイベントは、一つの通過点である。しかし、既に述べた通り、この通過点にて勝利を得られなければ、その後のさらなる進展もない。そのため、女戦士たちは「中途半端な愛情」でもいいから手に入れたいと心から思い、戦いに向けて進むのである。

 この後は「もう後には引けない そっと深呼吸 これが最後のチャンス」と引き続き不退転の決意でこの戦いに臨むことが語られる。これが、本論で最初に名前を挙げたバレンタイン関連楽曲群と同じく、「一年に一度しかないチャンス」であるという意味を背負っているのではないかと考える。

 チョコレートの銃弾を撃ちまくる激戦の果てに、「To be continued…maybe!」と綴られ、この後どうなったかは不明瞭だ。あるいは、きっと彼女らは勝利を得るであろうというほのめかしとも受け取れるかもしれない。

この戦いに勝利した女戦士の後日譚的物語も、もしあったら面白いのではないか。

 

まとめ

 「男は狼なのよ 気をつけなさい」とはピンク・レディーの『S・O・S』の中に登場する、よく知られた歌詞である。そんな凶暴な狼と向き合うためには、女性たちは「女戦士」、同じ動物で例えるならば、虎のような存在であらねばならないのか。

 いや、必ずしもそうとは限らない。むしろ狼には、子猫や羊を見せるのだ。しかしその一見かわいらしい子猫や羊の皮の中には、ライバルを排除し、自分が勝つための闘争心と狡猾さが隠されている。自身の愛嬌(可愛らしさ)でもって狼を引き込み、逆に取り込んでしまうような要領の良さと、勝負をすべき時には迷わず戦う度胸。そんな女子を描いているのが、今回扱った楽曲であるように思う。

 舞さんは、最初に引用したインタビュー記事内で「恋愛って、ドロドロ要素もありつつもでも女の子が一番輝く瞬間でもある」と語っている。今回取り上げた二曲で描かれた女性たちは、いつか自分のところにも白馬の王子様が迎えに来てくれる、といったような夢のある物語には期待しない(わずかばかりの期待は心のどこかにあるかもしれないが)。そこに存在しているのは、都会やバレンタインデーといった様々な男女が交わる機会が得られる世界に身を置く、行動を起こすことで自分は輝きを得る=ヒロインになれる、という考えの信奉者たちなのではないか。男性側としては、本質を知れば「イマドキの女子ってそういうもの」「可愛い、でも怖い」と認識させるような、そんな存在と言えるのではないだろうか。

 

 

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擬人化と昔の猿蟹合戦は面白いという話―蟹味噌を取られる蟹

 久しぶりにまじめな、文学的な話である。昨日、こんな記事が話題になっていた。

mag.japaaan.com

 動物の擬人化、いわゆる異類合戦物と呼ばれるものである。彩色もしっかりとなされている絵だ。こうした異類合戦物については、面白い研究があるので紹介しておきたい。なお、参考文献は一番最後に載せておく。正規の示し方ではないが、これは論文ではないのであしからず。今どきは某偽史倭人伝と同じような批判を受けないためにも、しっかり載せておくべきであろう。

 

「異類合戦物は中世後期に軍記物語のパロディとして生まれた。もちろん、その前提として、現実世界において異類同士の戦いを珍事として見聞することがあった。たとえば蛙の群婚を蛙の社会での合戦と認識し、見物する人々は古代から存在した。これら現実世界の生き物たちの行動に対する関心が軍記の叙述と結びつくことで、異類合戦物が成立したと考えたい。」

 

 さて、わが国では昔から現代に至るまで、擬人化という手法が盛んである。近世、江戸時代には「辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)」という本が、当時の洒落言葉を擬人化するという新しい試みを行った。洒落言葉とは、例えば「大木の切口ふといの根」(ふとい、とんでもない、ふてえ野郎だ)「とんだ茶釜」(驚いた)などの変わった言い回しである。そんな言葉たちが擬人化され、こう言う。「我々は草双紙に出て多くの人に名を知られるようになった。我々は草双紙の氏神のような存在であるので、画工や草紙屋、板木屋などは自分たちを崇めるべきである。それなのに彼らは茶の一杯も飲ませることはない。この春は珍しい化け方をして、職人共に思い知らせてやる」と怒った彼らは、本当に実行をするという筋書きである。動物でも物体でもないものを擬人化する発想は面白い。

 そして現代では、艦隊これくしょん刀剣乱舞など、元々は生物ではないものの美少女化・イケメン化がなされ、大人気となっている。特に刀剣乱舞は元になった実際の刀剣を展覧会などに見に行くという人も多く、私の知る某先生が、今どきは刀を見て悲鳴を上げる女性がいると話題にしていたことを覚えている。地域振興に大活躍のゆるキャラも、擬人化の一つだ。

 そんな擬人化だが、いざ絵にしてみると、いくつかの表現方法があることが分かる。田口文哉氏が「動物、変装、変身」の三つに分け、そこから更に水谷亜希氏が「本来の姿、合成的姿、人間の姿」という呼称を使用した。簡単に言うと、以下の通りである。これ以降の考察でも、この数字で説明する。合わせて、「お面型」と呼ばれる擬人化については後述する。実物を見てもらってからの方が説明しやすいからである。

 

1、動物・物体そのままの姿でしゃべったりする

2、本来は二足歩行をしない動物なども服を着てしゃべったりする、頭部などが元の動物そのままの姿である

3、動物的要素がなく、美少女・イケメンなど完全に人間の姿として擬人化されている

 

 1はよくある桃太郎の絵本を思い浮かべてみればよい。犬や猿、雉は動物そのままの姿で描かれている場合が多いだろう。それなのに、桃太郎ときび団子のやり取りをしたり、人間と意思疎通が可能である。そして、鬼との戦いでは雉がくちばしで目を突いたり、それぞれの動物的特徴を生かして戦う。そのままの姿であっても、これも「擬人化」と呼べるのだ。

 2は最初に紹介した記事の絵があてはまる。いずれも動物が擬人化されており、着物を着て人間風には描かれているが、頭部が元の動物そのままである。

 3は艦これや刀剣乱舞など、現在でも人気の擬人化コンテンツの多くが当てはまる。美少女化・イケメン化をすると、元になった事物の原型はなくなるが、体に軍艦的パーツを装備させたりといった要素を残そうとする場合もある。

 

 さて、今回は擬人化の面白さについて、誰もがよく知る『猿蟹合戦』を例に挙げて紹介してみよう。同じ題材であっても、擬人化の方法が異なっているという場合があるのである。近世の子供向けの絵本の中の、蟹が猿を懲らしめる場面を取り上げていきたい。

 

①『猿蟹合戦』

 最初に取り上げるのは赤本(受験のアレではなく、表紙が赤かったのでそう呼ばれる)の『猿蟹合戦』である。最初にこの絵を見ていただきたい。

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 順番に説明しよう。猿は動物そのままの姿(1)で描かれているが、これ以前の描写では着物を着て人間のようにふるまっていた。ここだけ、裸で元々の猿の姿での描写である。猿を懲らしめるべく、まず、卵がはねる。右上の丸から線が放出されているのがそれだ。昔の『猿蟹合戦』には、卵が登場することがある。こちらも1であろうか。我々がよく知る猿蟹合戦では、この役目は囲炉裏で熱された栗であろう。しかし、当時は卵なのである。意思を持って猿を攻撃している。そして糠味噌桶(右下)の方へ逃げた猿に対して、包丁が襲いかかりまな箸が突く。包丁は頭そのものが包丁の形をしており、顔がそこに描かれた2の形態である。まな箸は猿の足に突き刺さっており、これは1であろうか。続いて熊ん蜂(左下)と蛇(猿の足にいる)が襲い掛かる。蛇は巻き付く、蜂は刺すというその生き物ならではの攻撃をしている。どちらも1の形態である。続けて、手杵(臼の上)が猿の頭を打つ。次に猿は荒布(樽の隣の黒い線)で滑って転ぶ。これも1の形態だ。水瀬いのりさんが、町民集会夜の部でスタッフが描いた猿蟹合戦の絵の臼を「餅巾着?昆布?」と言っていたが、このように昆布が登場する猿蟹合戦は存在するのである(※町民集会でそう呼ばれていた絵は、どう見ても臼であった)。最後に、立臼が猿をとり押さえる。これは顔が臼だが体は人間という2の形態だ。左上では、蟹が少し離れた場所からその様子を見ている。ここでは人間の頭の上に蟹が乗っているという擬人化がなされている。これはお面型と呼ぶのが適しているが、1と3の折衷のような形であると言えようか。

 そこに、これまで猿に眷属を干し蛸にされていたことを恨んでいたタコが現れ、焼いたごぼうを猿の尻に押し付けた。タコは、頭そのものがタコだが体は人間の2の形態で描かれている。ちなみにこのタコ、「蛸の芋掘」という名前である。昔からタコが陸に上がって芋を掘るという話は存在しており、何より鴨葱と同様、タコと芋は料理としての相性もいいようである。

 この『猿蟹合戦』はストーリーも特殊である。ざっと説明しよう。まず竜宮より帰った猿(猿蔵という名前)が、水中で漆にかぶれたため医者に診てもらっているという語りから始まる。医者はこの痛みには膏薬もいいが蟹の味噌が最も良いと話し、他の薬なども出す。当時は蟹の味噌は薬効があると考えられていたようである。ただのおいしいものという扱いではなかった。その猿蔵の息子の猿平は、親のために蟹の味噌を探し求める。すると、蟹蔵が柿を取れずに困っていた。猿平は代わりに木に登って取ってやるふりをし、柿の実を食べ、渋柿を蟹蔵に投げつけた後、その頭の味噌を取って帰った。甲羅が割れたのだろう。えげつない話である。これは今どきの子供がショックを受ける。これ、当時の子供向けの絵本である。味噌を取られた蟹蔵は、病床に自分のなじみの立臼、包丁、クラゲたちを呼び、倅(蟹八という名前)と共に私の仇を討ってくれと重ね重ね頼み、息絶える。そこから復讐のため、蟹八は父の仇を狙うようになった。

 一方の猿蔵は快癒し、馬に乗り道をゆく。蟹八は葦の若芽の中から現れ、襲い掛かるも失敗。蟹八は猿にかなわないと思い、西国の秦(はた)の武文を頼る。蟹八は武文の元に逗留し、娘のお文と結ばれる。武文もそれを喜ぶ。注ではこの武文を「『太平記』巻十八に登場する後醍醐天皇一の宮尊良親王随身」であり、「武文の霊が甲蟹に化したとして土地の人がこれをとらない俗伝を批判している」とする話を載せる。ゆえに武文もやはり擬人化された蟹として登場する。この辺り、『太平記』が分かれば面白い発想である。

 一方の猿方は、山門の見猿、聞か猿、言わ猿に加勢を頼む。山門は比叡山延暦寺日吉神社(猿神信仰)もあるため、そこからの発想であるとされる。そしてついに猿方と蟹方が大合戦となる。結果的に蟹方は敗退。何で負けたとかといった記述はなく、「うち負けて敗軍する」とだけ。蟹はここは退き、改めて策謀を巡らそうとする。退却ではない、明日への進軍だ。

 蟹八は偽りの降伏をし(おいおい三国志なんかでよくあるヤツか)、猿蔵を先生と仰ごうとする。猿蔵は喜ぶ。蟹八は、猿蔵を自分の家に招いてもてなす。そこで一斉に襲い掛かる者ども。捕えられた猿蔵は降参し、謝罪する。そして猿蔵の息子の猿平は、今度は恥をかかされた俺たちが復讐する番だと蟹を討とうとしたが、武文の軍法によって和睦する。語り手は、武文の軍法の特に優れているのををたたえて終わる。復讐の連鎖にはならず、めでたしめでたし。蟹は二度も猿に敗れるが、最後は仇討ちに成功するなどより物語として面白みのある展開となっている。

 

②『さるかに合戦』

 今度は別の本を見てみよう。

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 こちらのストーリーは我々がよく知る一般的な猿蟹合戦と同じである。何も知らず猿が蟹の家にやってくる。囲炉裏からは卵(上の絵の囲炉裏から線を出してるもの)が、それから蜂(1の形態)が襲い掛かり、蟹(お面型)も姿を現す。猿は火傷をしたが、そこに蛇や包丁も加勢する。上の絵では、蟹がお面型で描かれている以外はすべて1の形態である。一方下の絵では、お面型が多くなっている。特に卵(左端)は人間の頭の上に丸い卵を載せており、着物にも「玉」と「子」が描かれている。猿は変わらず着物を着ておらず、1の形態である。包丁は①の猿蟹合戦とはうって変わって、人間の頭の上に包丁が乗っているというお面型である。玉子がはねつける、蜂が「刺すぞ」、包丁が「裂いてくれよう」と言っており、個々の本来の特徴を活かした攻撃をするには、1の形態で描いた方が都合がいいためこうした書き分けをしたのだろう。しかし、そう考えるなら、下の絵で猿の下に入り滑らせている荒布は謎である。変な髪型のおじさんではなく、昆布なのだ。先ほどは昆布そのままの姿で描かれているが、こちらもお面型となっている。そして杵にも注目してほしい。①の猿蟹合戦では、杵そのものに顔が描かれていたのに対して、こちらではお面型である。

 これ以前の会話の描写では、荒布の「あらめんどうな猿めだ」というセリフが荒布とあらめをかけていたり、「杵とかちんはめいしょを知る」が「杵とかちん(餅の女房詞)に諺『歌人は居ながらに名所を知る』を掛けたもの」であるなど、会話が個々の特性を活かして洒落を混ぜ込んだようなものになっている。

 

おわりに

 これ以上話すとかなり長くなるので、今回はこのくらいにしておこう。他にも変わった猿蟹合戦は存在するが、気が向いたら紹介する機会もあるだろうか。猿蟹合戦以外にも、擬人化ネタはいくつか用意している。最初にも述べた通り、同じ題材であっても、擬人化の方法が異なっているという場合があるのである。特に卵のような、顔のないものをどう表現するかという問題がある。これは生物であっても顔がないクラゲでも同様の問題が発生していた。そこでお面型である。普通の顔もある人間の頭の上にそのまま乗せ、着物に文字を書くなどしてこれは○○だと説明する方式。これがとても便利。昔の日本人も、現代と同様、様々な擬人化の表現方法を考えたのだ。もはや擬人化できないものは存在しないのではないかと思えてくる。

 余談であるが、最初に紹介した「辞闘戦新根」には、茶屋にいる擬人化された茶釜の姿を見た客が驚いて逃げるという場面もある。3の形式、すなわちイケメン・美少女であれば、かわいい、かっこいいで済む。しかし、頭は何か別の生物・物体で、胴体が人間という奇妙な姿を普通の人間が目にしたとき、それは化け物にしか映らないのである。当然だろう。逆に、擬人化された生物しか登場しない物語であれば、こうした「相手の姿かたちへの恐れ」というものは存在しない。自分もまた同じような姿をしているからだ。

 

〇参考文献

小池正胤、宇田敏彦、中山右尚、棚橋正博『江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集』社会思想社 1980年

鈴木重三、木村八重子編『近世子どもの絵本集 江戸篇』岩波書店 1985年

中野三敏、肥田皓三編『近世子どもの絵本集 上方篇』岩波書店 1985年

田口文哉「「擬人化」の図像学、その物語表現の可能性について―御伽草子『弥兵衛鼠』を主たる対象として」『美術史』 2006年3月

石川透編『中世の物語と絵画』竹林舎 2013年

伊藤慎吾『擬人化と異類合戦の文芸史』三弥井書店 2017年

年を越しても世界は変わらない

 年末である。皆様いかがお過ごしだろうか。大掃除や年賀状書き、コミケ、帰省などで忙しいという人も多いことだろう。今期視聴していたアニメ群も軒並み最終回ラッシュとなり、寂しい限りである。毎期非常に多くのアニメ作品が放送されるが、全て見るというのはよっぽどの好事家でもない限り難しい。ゆえに、今回リアルタイムでは触れることができなかった作品というのも当然ある。こうした作品は一生見ることがないかもしれないし、何かの機会に他の人から薦められたりするなどして見る機会があるかもしれない。放送が終わった作品も、何年かしたら2期やOVAが作られたりするかもしれない。

 さて、私がこのブログを前回更新したのは8/30、もう4か月も前のことである。テコンダー朴の件でアカウントロックを喰らったわけであるが、あれ以降、引っ掛かりそうなツイートの削除のかいあってか、同じ憂き目に遭うことはなかった。

 そもそもこのブログの存在を忘れていた、というわけではなく、わざわざブログでまとめるほどのものではない、Twitterに書けばそれで済んでしまうような話ばかりだったからである。しかし、今年はこれでこのまま放置するのもなんだか嫌だな、ということで書いている。次回の更新はまた来年(2019年)の年末になっているかもしれないし、それは私にもわからない。

 大晦日といえば、子供の頃、特に小学生の頃は高揚感のようなものがあった。年をまたぐと、何か世界が変わるのではないか、というような思いにも似た感情があった。街を歩いても普段とは違う空気感が漂っているし、テレビも盛んに新しい年を迎える準備はできているか?などと煽り立て、カウントダウン特番などが組まれる。子供としてはお年玉がもらえたりして嬉しい、というのもあるだろう。そんな私は当時ドラえもんの長時間スペシャルをよく視聴したもので、両親が紅白を見る時間を奪ってしまうためきっと渋い顔をされていたに違いない。そんな私が今年は茅野さんが出るという理由だけでドラえもんスペシャルを視聴したりしたのだから、人は変わるものである。

 そして年が明ける。我が家は親戚が非常に多いため、家を訪ねてくる彼らに対し、私は子供のころから頻繁に挨拶と雑談に連れていかれる。彼らによる私に関わる事象以外の話題は実に退屈なものであり、座敷は冬は寒い。しかし、私はお年玉を手に入れるために適当に時間を潰しつつ過ごすのであった。そんな話も今は昔。私の親戚も年を取った人が増え、昔ほど年始にやってくる人もそう多くはいない。みんな大変だから、ということで取り決めをして止めてしまったのだという。私の祖父も高齢で、年始の挨拶に出向くのをやめた。近年は私が帰省するたびに、親戚の○○、近所の××が亡くなった、と祖母が話している。私が子供だった頃と比べて、みんな年を取ったのだ。無常である。私の家系の男性は80歳まで生きた人はいないんだ、という話を昔聞いたことがある。まったく嫌な話だと思ったものだが、祖父は80歳を越えても生きている。このまま長生きして我が家の長寿記録を更新していって欲しいものだ。

 懐古はこのくらいにしよう。さて、いつからだろう。大晦日というものに対して、昔ほど特別な感情を持たなくなった。確かに、2018年が2019年にかわり、再び1月からスタートする、というのはあるだろう。しかし、明確な「断絶」ないし「進化」ではないのである。年を越しても我々が生きるこの世界は変わらずに続いていく。仕事だって年をまたいでやらねばならない案件もあるだろうし、「平成30年度」というものはまだ続く。きっと小学生の頃は、まだ幼い=こういうイベントを経験したこともあまりない、だから何もかもが新鮮に映った、ということなのだろう。それから毎年同じことを繰り返すと、だんだんと年を越しても世界は変わらない、ということが分かってくるというわけだ。果たしてこれは残念なことなのか、そもそもそういうものなのか。

 なにはともあれ、私と同じように大人になってしまった諸氏も、ゆっくりと年末年始を過ごしていただきたい。本年中の謝辞については、日を改めてTwitterの方に記したい。

テコンダー朴のネタでアカウントロックされる男

 タイトルの通りだ。早速本題に入ろう。私のTwitterアカウントが昨日から今日の午前1時頃にかけて、アカウントロックを喰らっていた。朝起きて覗いた際には何も問題がなかったのだが、その後空き時間に開いてみるとびっくり。何事かと思った。届いたメールをみてみると、どうやら8/29の午前10:56にアカウントロックされたようだ。そこから指示に従って電話番号認証をし、問題だと指摘されたツイート三つを削除。すると「ご利用のアカウントは一時的に機能が制限されています」の表示と共に、ロック解除まであと何時間何分かかる、という画面となった。私の場合は、約15時間30分ほどのペナルティが与えられた。以下は暫くたってからの画面。

 

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 最初はTLのチェックなどができたが、いいね、RT、リプライを送るなどの機能の使用はできないという状況になった。そこから、スマホでログインすると、エラーを吐いてロック解除の2時間前くらいから何も見れなくなってしまった。この辺りの仕組みはよく分からない。

 さて、では私のツイートの何が問題だったのか。Twitterでそのことを話し始めるとそれでまたロックされるという間抜けなループにはまる可能性があるので、こちらで考えてみよう。私に届いたメールには、以下の三つのツイートがダメだと書かれていた。スクショを載せよう。

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 これらは全て、人権派格闘技漫画こと『テコンダー朴』(青林堂)内にある、界隈では有名なネタである。内容も全部同じようなものだ。これが特定の民族など様々な属性への「暴力を助長」などにあたるというわけだ。Twitterで検索してみると、どうやら同様のツイートで前にロックや凍結を喰らったという人がちらほら。「いきなりロックかよ?ツイッパリらしいな」と言いたいところだが、では具体的にどれがダメなのか。

 ここからは、同じくテコンダー朴ネタでロック・凍結された人の報告と、「どのルールに違反しているのか」という文言を読んだ上での私の考えを合体させてのごく簡単な推論となる。先に言えば、見方は2つ考えられる。一つが、「劣等民族」と「殲滅」を一つのツイートに並べてしまったのがアウトと判定されたというもの。極めつけは「殲滅」だ。恐らくTwitter側は、これを日本人へのジェノサイド(民族浄化)を呼びかけるもの、まさに「暴力を助長」するものであると判断したのだろう。テコンダー朴のネタとは関係ないが、「○○(特定の)民族」と「殲滅」というワードを並べたツイートでロックされていたという人を見かけた。それも同じパターンだろうか。どうやら「チョッパリ」も問題がありそうだが、特に「殲滅」というワードと並べてしまうとアウトという報告がある。

 もう一つ考えられるのが、そもそも「劣等民族」というワードがアウトという可能性。劣等民族というと、ナチスユダヤ人などをそう規定して虐殺するという狂気の戦争犯罪を想起させるのかもしれない。私は日本人であるが、なるほど別の国や民族ではなく、同じ日本人への「劣等民族」というワードを用いた場合もアウトのようである。そもそも発信者が誰かという辺りは勘定されていないのだろう。もし仮に同じTwitterという場で、白人至上主義者の人がこういったツイートをしていたならば「それはアウトだ」と思うだろう。発言者ではなくTwitterという「場」の問題であると考えられる。

 私がこのネタをやったのは今回が初めてではなかったが、最近は長期間ログインされていないアカウントが削除・ロックされるなど、Twitterの言論プラットフォームは様々な面で厳しくなってきている。過去の同様のネタも念のため自分から削除したが、今後ついうっかりこのネタを使ってしまいそうになる人などは、先達として私から注意を呼び掛けておきたい。同様のツイートを既にしてしまっている人は、ロックが嫌なら今すぐに自分でツイートの削除をすることだ。漫画の、しかも他国への中傷ではなく自国の中傷ネタであってもダメなものはダメらしい。今後はテコンダー朴ネタをやるにしても、これだけは避けた方がいいのは間違いない。

 次はないと思うが、またアカウントロックや凍結などの憂き目に遭った場合はこのブログで報告する。私のことをTwitterで最近見かけなくなったね、とふと思うような物好きな方はこちらをチェックしてみて欲しい。

『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』と舞台挨拶をみてみた りぴーと※ネタバレを含む

 昨日、この作品を観た私だったが、今日も舞台挨拶と上映があったため、TOHOシネマズ川崎へと向かう。昨日の感想記事を夜遅くに書いていたため、ゆっくり寝てしまったが遅れることなく劇場に到着。やはり今回も本人確認と手荷物検査は厳重であった。今回の色紙は、出ましたれんげ&蛍。これは嬉しい。ガチ勢はコンプリートを目指すべく既に複数回見ているようだが、私も昨日引き当てた一穂・駄菓子屋の色紙を四枚持っている、れんげ・蛍が欲しい、という声も聞こえてきた。

konamijin.hatenablog.com

 

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 今回は昨日のように上映前に舞台挨拶をするのではなく、観た直後に舞台挨拶をするという形式。登壇者は村川梨衣さんと佐倉綾音さん。司会は同じくKADOKAWAの女性。先にこちらについて書いておこう。

 「皆さん心なしか優しい顔をしているような」と佐倉さん。そして村川さんから自己紹介。やっぱり挨拶は「にゃんぱすー!」だが、その後に「沖縄ー?」「最高ー!」コールを要望し、不思議な空気に。続く佐倉さんは一度「にゃんぱすー!」と言い、その後でもっと大きな声で言ってということで再び「にゃんぱすー!」。

 そしてトークがスタート。「待ちに待った続きを劇場版でお届けできる」と村川さん。二人とも久しぶりののんのんびよりを観客同様楽しんでいたようだ。「ひかげがうるさかった、夏海と一緒だから。夏海のひかげの扱いが酷い」と佐倉さん。村川さんの褒める語彙が小学生並みだったので、佐倉さんが「語彙力!」と突っ込む。観客の中には昨日公開なのにもう二回以上観ているという人が非常に多かった。「皆なにしに来たの?」とは佐倉さん。二人とも意外そうな反応だった。抽選に応募する際に全員集合回である前日と今回と、両方当選したという人も多いのだろう。

 ネタバレありで印象に残ったシーンについて話していく二人。佐倉さんはやはり新里あおいちゃんとの交流について。夏海は最初はちょっとあおいちゃんが苦手という感じだったようだが、打ち解けていくという話。「あれ男女だったら絶対(恋が)始まってるよね」と佐倉さん。村川さんも「夏海男の子みたいだよね」と応じる。私も前の記事でそんなことを書いていたのでとても共感した。そして最後の別れの場面。「れんげとアイコンタクトをすることで、何か伝えなきゃと思った。本人たちはそう思っていないかもしれないけど、これは青春。後で大人になってあんなこともあったなあと思い出すような」と佐倉さん。佐倉さんは実際のアフレコ現場でも別れたくないなあと思っていたそう。「別れは人を成長させる、皆も(別れという点で)似たような体験はあるんじゃないか」と佐倉さん。また、帰りの車に乗った夏海が鼻をすするという点にも言及。「アフレコ台本のト書きにはあったがセリフではなかった。でもやってみたらそれでいきましょうという話になった。渾身の鼻すすり」とのこと。今後二回目、三回目と観に行くという人は、注目すべき点だろう。村川さんは蛍についてではなく小鞠について尋ねられる。表情に注目して欲しい、例えば海に入る際にカナヅチである小鞠の目が点になっているところなど、とのこと。

 舞台挨拶はあっという間に最後に。

佐倉「社会の喧騒に疲れたらまた来ていただいて。何度でも感動できる作品だと思うんですよ。観終わって外に出てみたら世界が明るく見えるような。また最初に観たときの感じなんかを思い出しつつ」

村川「もうすぐ夏休みも終わりですか?こんなこと言っちゃいけないかな、毎日お仕事頑張ってるよという人も、明日は月曜日ですから、傷が全回復したと思います。赤ゲージじゃなくて黄色ゲージくらいになってたのが。のんのんびよりには治癒能力があります。浄化される」

 こうしてのんのんびより健康法が生まれたのであった。そしてキャスト二人は舞台を降りる。私の席が入退場口と近かったので最後に二人がよく見えた。

 

 今回は二度目の観賞だったが、全体的にひかげがいい味を出していたと思う。アクロバティック土下座や飛行機で耳を痛めてしまった後のやりとり、船酔いなどとにかくついてないのだが、それでも自分のテンションを崩さない。散々な目に遭った彼女だがやっぱり楽しかったようで、最終日には高校一年生だというのに泣いていた。彼女のは旅行が心から楽しかった、まだ帰りたくないという思いからの涙である。一方で、同じく泣いていた夏海は、やはりあおいちゃんと別れるのが寂しい、早すぎる、という思いからの涙だろう。この点、同じ涙でも意味が全く異なるのである。ひかげの考え方がまだ子供っぽいという話ではなく、それぞれが自分の気持ちに素直に向き合っての涙だということが重要だ。

 対照という点で言えば、大人部屋といつもの面々の部屋、それぞれが別の日の夜中にコッソリカップ麺を買ってきて皆で食べるという場面。前者は一穂、後者は夏海が買ってくるが、どちらも「いや私は食べない」とい言う者はいなかった。この点、根本的な部分でみんな共通している、だから仲良くやれる、ということが分かる。

 そう言えば、兄ちゃんは特賞を当てた功績ということで、二人部屋を一人で使う権利を与えられた。ゆえに、夕食後には登場頻度がガタ落ちしてしまう。さっさと寝たのだろうか。

 昨日はED曲について言及していなかった。れんげ、蛍、小鞠、夏海の歌う『おもいで』。OPとは異なり、エンドロールと共にフルで流れる。タイトルの通り夏の思い出を歌いつつ、本編ラストでもれんげが言った「ただいま」というワードが重要な位置を占めている。これは『のんのんびより りぴーと』の『おかえり』に対応していることは言うまでもない。「のんきな風が吹いたから また季節が歌ってる」という歌詞もあるが、これも一期のED『のんのん日和』と先述の『おかえり』の歌詞である「のんびりと歌うから のんきな風が吹いたを踏まえたものである。こういうところも、過去作からのファンには嬉しいポイントである。

 リアル田舎、そして沖縄では現時点で上映劇場が存在しないのんのんびよりであるが、ぜひ多くの人に心を浄化しに行ってもらいたいものである。まだ原作は続いている。またいつか、「ただいま」と言ってのんのんびよりの世界を見せて欲しいものである。

 

※おまけ

 私の推しキャラは富士宮このみである。数年前の原作の公式人気投票で、夏海を押しのけ4位に入った子であり、高校三年生。ゆるめのお姉さんキャラ。怒らせると怖い。顔が可愛い。今回の劇場版ではセリフはそれなりにありはしたが、そこまで重要な役割は果たしていないように思えた。今回主役級であった夏海の逆襲であった。